後醍醐天皇(ごだいごてんのう)島流し:隠岐国からの脱出!

日本の歴史には、数々のドラマチックな物語がありますが、後醍醐天皇と南北朝時代の話は特に衝撃的です。

この記事では、後醍醐天皇がどのようにして自分の理想と夢を追い求め、どのような困難に直面したのかを見ていきます。

特に、彼の大胆な政治改革の試み、権力を取り戻すための努力、そして隠岐の島からの驚くべき脱出にスポットを当てます。

私たちは、天皇と幕府という二大権力の対立、それがもたらした南北朝時代の戦乱、そしてこれらが日本の未来にどのような影響を与えたかを探ります。

この記事を読むことで、後醍醐天皇の強い意志と彼の時代の複雑さについて探っていきましょう

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後醍醐天皇島流し

後醍醐天皇とは

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、日本の第96代天皇。

1288年11月26日(正応元年11月2日)鎌倉時代~1339年9月19日(旧暦・延元4年/暦応2年8月16日)南北朝時代(51歳没)

年号西暦年出来事年齢
正応元年1288誕生1
乾元2年1302幼名は尊治(たかはる)親王宣下を受け、後醍醐と改名15
延慶元年1308花園天皇の皇太子となる21
文保2年1318即位31
正中元年1324正中の変(しょうちゅうのへん)(第一次討幕計画)37
建武6年/延元4年1329足利尊氏(あしかがたかうじ)との戦い(建武の乱)42
元弘11331元弘の変(げんこうのへん)(第二次討幕計画)、鎌倉幕府打倒44
元弘2年/正中元年1332鎌倉幕府によって隠岐島(おきのしま)(現在の島根県)に流罪45
元弘3年/正慶2年1333隠岐島から脱出、鎌倉幕府倒滅46
建武元年1333京都に帰還、建武の新政(けんむのしんせい)開始46
建武2年1335足利尊氏、京都を占領48
建武3年1336吉野山(現在の奈良県)へ逃れ、南朝を立てる49
延元4年/暦応2年1339崩御51

後醍醐天皇の家族構成

  • 父親: 後宇多天皇(ごうだたてんのう) – 後宇多天皇は、後醍醐天皇のお父さんです。天皇は日本の象徴であり、国事の象徴とされています。
  • 母親: 五辻忠子(ごつじただこ)(参議 五辻忠継の娘) – 五辻忠子は後醍醐天皇のお母さんで、彼女の父親は五辻忠継という人物です。参議は、古代日本の官職の一つで、天皇の側近であったことを示しています。
  • 皇后: 西園寺禧子(さいおんじきし)(中宮 → 皇太后宮、後京極院(ごきょうごくいん)) – 西園寺禧子は後醍醐天皇の妻で、皇后という地位にありました。皇后は天皇の正妻のことを指します。彼女は後に皇太后宮となり、その後、後京極院という名前で呼ばれるようになりました。
  • 中宮: 珣子内親王(すけこのないしんのう)(新室町院)(しんむろまちいん) – 珣子内親王は後醍醐天皇の妻で、中宮という地位にありました。中宮は天皇の正妻のことを指します。彼女は新室町院という名前でも知られています。
  • 女御: 二条栄子(にじょうえいこ)(安福殿)(あんぷくどの) – 二条栄子は後醍醐天皇の妻で、女御という地位にありました。女御は天皇の妻の一人で、皇后や中宮とは異なる地位にあります。

後醍醐天皇には8人の皇子と8人の皇女がいました。

  • 尊良親王(たかよしないしんのう)
  • 世良親王(よしないしんのう)
  • 護良親王(もりよしないしんのう)
  • 宗良親王(むねよしないしんのう)
  • 恒良親王(つねよしないしんのう)
  • 成良親王(なりよしないしんのう)
  • 義良親王(よしないしんのう)、別名:後村上天皇(ごむらかみてんのう)
  • 懐良親王(めぐむしないしんのう)

当時は二つの天皇家が存在した?!

日本の歴史では、特に鎌倉時代の終わりから南北朝時代にかけて、二つの異なる天皇家系、つまり「大覚寺統(だいかくじとう)」と「持明院統(じみょういんとう)」が存在しました。

これらは、どちらも正統な天皇の血筋を引く家系ですが、それぞれ異なる天皇の子孫を中心に形成されています。

大覚寺統(だいかくじとう)とは?

大覚寺統は、亀山天皇の子孫によって形成された皇統です。

後醍醐天皇もこの家系から出ており、彼はこの系統の代表的な天皇の一人として知られています。

大覚寺統は、皇位継承においてしばしば幕府の影響を受け、幕府と協調しつつも独自の権威を保持しようと努めました。

持明院統(じみょういんとう)とは?

一方、持明院統は、後淳和天皇の子孫を中心に形成された皇統で、光厳天皇などがこの家系から出ています。

持明院統は比較的幕府との関係が密接であり、しばしば幕府の後ろ盾を得て皇位につきました。

両統迭立(りょうとうてつりつ)とは?

両統迭立は、これら二つの皇統が交互に天皇を出すという形式を指します。

つまり、一つの皇統から出た天皇が亡くなると、次はもう一つの皇統から天皇が出る、という形で皇位が交代しました。

これにより、両皇統は共存し、それぞれの正統性を主張しつつも、時には対立しました。

建武の新政(けんむのしんせい)と南北朝時代

後醍醐天皇の建武の新政は、このような背景の中で起こりました。

彼は大覚寺統から出て、幕府に対して独立した権力を確立しようとしましたが、失敗に終わります。

その結果、後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を立て、これに対抗する形で持明院統の天皇が北朝として擁立されました。これが、南北朝時代の始まりを告げる出来事でした。

南北朝時代を通じて、これら二つの皇統は日本国内で並立し、それぞれが正統性を主張しながら対立し続けました。

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この状況はいつまで続いた?

南北朝時代は、1336年から1392年までの約56年間続きました。

この時代は、日本史上唯一、正統とされる皇位が二つ存在した時期で、南朝と北朝という二つの皇統が並立し、対立していました。

この状況は、1392年に後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位し、南北朝の両統が再統一されることで終結しました。

この統一は、室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)によって仲介され、日本は再び一つの皇統に戻りました。

南北朝時代の終結は、その後の日本の政治や文化にも大きな影響を与え、室町時代の安定した土台を築くことに寄与しました。

後醍醐天皇 vs 足利尊氏:日本の歴史を揺るがした二人の闘い

後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒し、天皇中心の政治、いわゆる「建武の新政」を行ったことで知られています。

彼は、天皇としての権威を取り戻すために、自身の人生を捧げました。

しかし、その計画は足利尊氏によって阻止され、結果的に彼は吉野山に逃れ、南朝を立てることになりました。

一方、足利尊氏は、後醍醐天皇の新政に反旗を翻し、自身の力を増すことに成功しました。

彼は、自身を将軍とする新たな幕府、室町幕府を開き、日本の政治の中心を自身に移しました。

これにより、日本は再び武家政権の時代に突入し、天皇は再び象徴的な存在となりました。

後醍醐天皇と足利尊氏の闘争は、日本の歴史における重要な節目となりました。

後醍醐天皇島流し:困難からの脱出

日本史において、後醍醐天皇の島流しとその脱出は特に印象的なエピソードの一つです。

後醍醐天皇は、自身の政治的理想を追求する過程で多くの困難に直面しましたが、その中でも島流しは最大の試練の一つでした。

島流しに至る経緯

後醍醐天皇は、鎌倉幕府の弱体化を背景に、幕府打倒と皇権の回復を目指す「建武の新政」を開始しました。

しかし、新政への反発も強く、多くの武士たちの支持を得ることができませんでした。

この不安定な状況の中、天皇は反幕府勢力を結集しようと試みましたが、1331年の元弘の乱で失敗し、捕らえられてしまいます。

そして、1332年、後醍醐天皇は隠岐島(島根県の隠岐の島)へと流され、厳しい監視の下に置かれました。

隠岐の島脱出劇の展開

隠岐島での生活は極めて過酷でしたが、後醍醐天皇は諦めることなく脱出計画を練ります。

1333年、彼は忠実な支持者たちの助けを借り、隠岐島からの壮絶な脱出を果たしました。

脱出には多くの困難が伴いましたが、天皇は知恵と勇気をもってこれを乗り越え、本州にたどり着きます。

そして、同年には鎌倉幕府が倒れ、天皇は京都に戻ることができました。

この脱出劇は、後醍醐天皇の不屈の精神と、彼を支持する人々の献身的な努力を象徴する出来事として、後世に語り継がれています。

また、この成功は、後醍醐天皇による建武の新政再開のきっかけとなり、後に南北朝時代へとつながる重要な転機でした。


後醍醐天皇は、隠岐島からの脱出後も、日本の歴史に大きな足跡を残し続けました。

建武の新政を再び推進しようとした彼の努力は、最終的には幕府の力によって阻まれましたが、その理念は南朝を通じて生き続けました。

吉野で南朝の天皇として、北朝と対峙する彼の姿勢は、不屈の闘志を象徴しています。

1339年、後醍醐天皇は吉野で病に倒れ、この世を去ります。

しかし、彼が築き上げた南朝は、その後も40年以上続き、日本史において独自の文化と政治の時代を形成しました。

後醍醐天皇の死後も、彼の理想と精神は多くの人々に影響を与え続け、今日に至るまで多くの人々に語り継がれています。

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後醍醐天皇島流し:まとめ

  • 後醍醐天皇とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての日本の天皇
  • 後醍醐天皇年表では、天皇の生誕から崩御までの主要な出来事を時系列で紹介
  • 後醍醐天皇の家族構成では、天皇の親族や子孫に関する情報を解説
  • 当時、日本には大覚寺統と持明院統の二つの皇統が存在
  • 南北朝時代は1336年から1392年までの56年間続いた
  • 後醍醐天皇は建武の新政を試み、自らの理想を追求
  • 島流しに至る経緯では、元弘の乱における失敗が詳しく説明される
  • 脱出劇の展開では、後醍醐天皇がどのように隠岐島から脱出したかが描かれる
  • 後醍醐天皇と足利尊氏の対立は、日本の歴史における重要な転換点
  • 脱出後、後醍醐天皇は南朝を立て、北朝と対立
  • 南北朝時代の終結は、後亀山天皇と後小松天皇の間で行われた
  • この時代の終わりは、日本史における新たな章の始まりを告げる
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