運命に導かれた赤毛のアンと村岡花子さんの出会い

文学とは、時に作者の生涯を映し出す鏡のようなものです。
その最も顕著な例の一つが、カナダの小説家ルーシー・モード・モンゴメリさんと、日本の翻訳家村岡花子さんの物語です。
彼女たちの生涯は、世界中で愛され続ける児童文学の傑作「赤毛のアン」に深く結びついています。
この記事では、モンゴメリさんが生み出した不朽のキャラクター、アン・シャーリーとともに、村岡花子さんが日本にもたらしたその魅力を探ります。
両者の生涯を通じて、文学がいかに人の心を捉え、時代を超えて影響を与え続けるかを見ていきましょう。
「赤毛のアンと生きた: ルーシーモードモンゴメリ・村岡花子の生涯」というタイトルの下、彼女たちの創造的な旅と、その作品が後世に残す深い足跡に迫ります。
小説家ルーシー・モード・モンゴメリさんの生涯
ルーシー・モード・モンゴメリさんの初期生活と家族背景
明治7年(1874年)に生まれたカナダの文学者
ルーシー・モード・モンゴメリさんは、明治7年(1874年)カナダのプリンスエドワード島のクリフトン(現在のニューロンドン)で生まれました。
彼女の両親はヒュー・ジョン・モンゴメリとクララ・ウールナー・マクニール。
スコットランド系とイングランド系の血を引く彼女は、カナダ文学の草分け的存在として広く知られています。
幼少期の悲劇と祖父母による育成
モンゴメリさんは、1歳9か月の時に母親を結核で失い、父親がカナダの西部に移住したため、プリンスエドワード島のキャベンディッシュにある祖父母の家で育ちました。
彼女の祖父、アレクサンダー・マーキス・マクニールと祖母、ルーシー・ウールナー・マクニールは、彼女に対して厳格ながらも文学的な環境を提供しました。
彼女は祖父の詩を聞き、叔母たちから物語を聞くことで、物語や文学への愛を育みました。
しかし、保守的な祖父や支配的な祖母、彼女の欠点を非難する親族に対しては、複雑な感情を持っていました。
この家庭環境は、モンゴメリさんが文才に恵まれた作家となる礎を築きましたが、同時に彼女自身の内面に深い影響を与えたと言えるでしょう。
教育と文学への道
明治23年(1890年):青春時代の転機
明治23年(1890年)15歳の頃、モンゴメリさんは父親とその新しい家族と暮らすためにサスカチュワン州プリンス・アルバートに移りました。
しかし、そこでの生活は長くは続かず、1年後には故郷のプリンス・エドワード島にある祖父母の元に戻りました。
年齢が11歳しか離れていない継母から、子守りや家事を任されたモンゴメリさんは、自分の勉強に専念する機会を失いました。
しかし、この困難な時期に彼女が書いた詩やエッセイが地元の新聞に掲載され、これが後に彼女が作家を志すきっかけとなりました。
この経験は、彼女の文学的才能を開花させる重要な一歩となったのです。
明治26年(1893年):教育への道と初期の創作活動
明治26年(1893年)モンゴメリさんはキャベンディッシュにおける中等教育を修了し、シャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジ(現在のホーランド・カレッジ)に進学しました。
彼女は非常に優秀で、2年分のカリキュラムをわずか1年で終え、1894年には一級教員の資格を取得しました。
その後の1895年から1896年にかけて、ノバスコシア州の州都ハリファックスにあるダルハウジー大学で、聴講生として文学の研究を深めました。
この時期は、モンゴメリさんにとって学問的な知識を深めるとともに、彼女の文学キャリアにおいて重要な基盤を築く期間となりました。
文学的キャリア
教師としての経験と文学への貢献
プリンスエドワード島の様々な学校で教鞭をとった後、モンゴメリさんは1898年に祖父の死によりキャベンディッシュに戻りました。
祖父は地元で郵便局長を務めていたため、彼の死後、モンゴメリさんがその職を引き継ぎました。
その後、1901年から1902年にかけて短期間、ハリファックスの新聞社「デイリー・エコー」で記者兼雑用係として勤務しましたが、1902年に祖母の世話のため再びキャベンディッシュに戻ります。
明治41年(1908年):「赤毛のアン」の出版と国際的成功
明治41年(西暦1908年)、モンゴメリは最初の長編小説「赤毛のアン」を出版し、これが世界的なベストセラーとなり、彼女の文学界での地位を確立しました。

私生活と晩年
明治44年(1911年)の結婚と家庭生活
1911年7月11日、モンゴメリさんは36歳で長老派教会の牧師ユーアン・マクドナルドさんと結婚しました。
1906年の婚約から5年後のこの結婚は、彼女の人生に新たな章をもたらしました。
ルーシーさんとユーアンさんは、カナダのオンタリオ州リースクデールに居を構え、家庭生活を始めました。
この新しい生活はモンゴメリさんにとって多くの喜びをもたらすとともに、家庭内での挑戦も経験させました。
彼女は家庭生活の中で得た経験を文学作品に昇華させ、作家としてのキャリアをさらに発展させていきました。
結婚生活は幸せではあったものの、夫の精神的な健康問題や、自身のうつ病など、多くの困難に直面しました。

ルーシーの子供たち
- 長男のチェスター・キャメロン・マクドナルドさんは1912年(大正元年)に生まれ、1964年(昭和39年)に亡くなりました。
- ヒュー・アレクサンダーさんは1914年(大正3年)に死産でした。
- 次男の(ユーアン)スチュアート・マクドナルドさんは1915年(大正4年)に生まれ、1982年(昭和57年)に亡くなりました。
モンゴメリさんは、カナダのオンタリオ州リースクデールで、彼女の文学的キャリアの多くを過ごしました。
彼女はここで11冊の本を執筆し、その中には「赤毛のアン」シリーズの続編や、女性や子どもの内面を探求し、当時の社会規範や性別役割に対する批評的な視点を持った他の作品も含まれていました。
モンゴメリの作品は、彼女の敏感さと洞察力を反映し、多くの読者に深く共感を呼びました。
モンゴメリさんの文学的功績は、昭和10年(1935年)にフランス芸術院からオフィサーの階級を授与され、大英帝国勲位も受けることで国際的に認められました。
この年、彼女と家族はトロントに移住しました。
モンゴメリさんの生涯は、昭和17年(1942年)4月24日にトロントで終わりを迎えました。
当初、彼女の死因は「冠状動脈血栓症」とされていましたが、後に孫娘によって、うつ病による薬物の過剰摂取が原因の自殺である可能性が明らかにされました。
この情報は、モンゴメリの人生と作品を見る上で新たな視点を提供し、彼女の死に関する議論に影響を与えています。
翻訳家の村岡花子さんの生涯
村岡花子さんの誕生と家庭環境から文学への道
村岡花子さんは明治26年(1893年)、山梨県甲府市に生まれました。
彼女の家庭はクリスチャンで、2歳のときに甲府教会で幼児洗礼を受けました。
父・逸平さんは駿府(現在の静岡市)の小さな茶商の家庭に生まれ、カナダ・メソジスト派教会との接触を通じて熱心なクリスチャンになりました。
その後、甲府に移住し、てつさんと結婚し、そこで花子さんが生まれました。
花子さんの父は、商売よりも理想を追求するタイプで、家族としては経済的に困難な時期もありました。
花子さんが5歳のとき、家族は東京へ移住し、そこで新たな生活を始めました。
花子さんは城南尋常小学校に通い、短歌や句作で自然や心象風景を表現する才能を見せました。
父・逸平さんは教育の機会均等を強く訴え、娘の教育に力を注ぎました。
その結果、明治36年(1903年)には、10歳の花子さんを東洋英和女学校に給費生として入学させることができました。
しかし、このことは家族の生活が困窮している中での決断であり、花子さん以外の兄弟姉妹はほとんど高等教育を受けられない状況でした。
花子さんの教育は、家族の犠牲の上に成り立っていたと言えます。
教師としての道と文学への情熱
東洋英和女学校を卒業した後、村岡花子さんはブラックモーア校長の配慮により寄宿舎に残り、婦人宣教師に日本語を教える傍ら、日本基督教婦人矯風会の書記としても活躍しました。
大正4年(1915年)には山梨英和女学校で英語教師として赴任し、この期間に友人たちと共に歌集『さくら貝』を出版するなど、文学活動を続けました。ブラックモーア校長の支援と影響下で、彼女の文学への情熱は一層深まりました。
文学の道への転向
大正5年(1916年)からは童話や少女小説の執筆を開始し、大正6年(1917年)には初めての本『爐邉(ろへん)』を出版しました。
これを機に教師を辞め、東京・銀座のキリスト教図書出版社、日本基督教興文教会で女性向け・子供向け雑誌の編集者として活躍します
恋愛、結婚、そして家族
大正8年(1919年)、福音印刷合資会社の経営者であり既婚者であった村岡儆三さんとの恋愛を経て結婚し、村岡姓を名乗るようになりました。
大正9年(1920年)には長男・道雄さんが誕生しますが、悲しいことに大正15年(1926年)に病で亡くなっています。
息子の死をきっかけに、花子さんは英語児童文学の翻訳の道へ進むことを決意しました。
その後、彼女は『王子と乞食』や『パレアナの青春』など、数多くの英語児童文学を日本語に翻訳し、その功績で知られるようになります。

子供たちへの影響と遺産
残念ながら、花子さんには直系の子孫は残されていませんが、後に妹・梅子さんの長女・みどりさんを養女としました。
みどりさんの娘、すなわち花子さんの義理の孫である村岡美枝さんと村岡恵理さんは、赤毛のアン記念館・村岡花子文庫を主宰し、花子さんの遺産を次世代に繋いでいます。
「赤毛のアン」との運命的な出会い
村岡花子さんの翻訳への情熱
昭和14年(1939年)、花子さんは、L.M. モンゴメリの名作「赤毛のアン」の原書と出会います。
この運命的な出会いは、日本を去る宣教師ミス・ショーによってもたらされました。
村岡さんは、灯火管制下の厳しい環境の中で翻訳作業に没頭し、終戦頃にその作業を完成させました。
「赤毛のアン」の翻訳と日本での影響
昭和27年(1952年)、花子さんの翻訳した「赤毛のアン」が日本で出版され、広く受け入れられました。
この翻訳は、日本の児童文学界に新たな風をもたらし、多くの読者に愛されることとなります。
この作品の成功は、花子さんにとって画期的なものでした。

村岡花子さんの翻訳キャリア
花子さんは、この成功を受けて、モンゴメリの他の作品も次々と翻訳しました。
アン・シリーズ、エミリー・シリーズ、『丘の家のジェーン』、『果樹園のセレナーデ』、『パットお嬢さん』など、彼女の手によって多くの作品が日本語に翻訳されました。
彼女の最後の翻訳作品『エミリーの求めるもの』は、彼女の死後、昭和44年(1969年)に出版され、その文学的遺産は今も多くの人々に愛されています。

村岡花子さんの晩年とその影響
社会活動と文学への貢献
花子さんは、晩年に至るまで社会的な活動に積極的に関わり、文学に対する貢献を続けました。
昭和20年代から30年代にかけて、彼女はラジオ番組『子供の時間』の一コーナー『コドモの新聞』に出演し、「ラジオのおばさん」として幅広い人気を博しました。
また、第二次世界大戦中は戦争遂行への協力的な姿勢を示し、戦後は婦人参政権獲得運動などにも積極的に参加しました。
文化と教育への深い関わり
花子さんは、文部省の嘱託や行政監察委員会の委員、さらには女流文学者協会の理事など、多くの公的な役職を務め、日本の文化や教育に影響を与えました。
特に、児童文学の分野における彼女の貢献は大きく、昭和35年(1960年)にはその功績が認められ、藍綬褒章を受章しました。
晩年の生活と逝去
花子さんは、夫・儆三さんを昭和38年(1963年)に亡くした後も、文学への情熱を持ち続けました。
晩年は翻訳作業と共に、多くの時間を家族と過ごし、特に義理の孫である美枝さんと恵理さんとの関係を大切にしていました。
昭和43年(1968年)10月25日、村岡花子さんは脳血栓で逝去しました。75歳でした。
文学を愛した二人の女性:L.M.モンゴメリと村岡花子の生涯年表
西暦 | 日本の年号 | L.M.モンゴメリの出来事 | 村岡花子の出来事 |
---|---|---|---|
1874 | 明治7年 | カナダのプリンスエドワード島のクリフトンで生まれる。 | |
1890 | 明治23年 | サスカチュワン州プリンス・アルバートに移住。16歳 | |
1893 | 明治26年 | プリンス・オブ・ウェールズ・カレッジに在学。19歳 | 山梨県甲府市で生まれる。 |
1895 | 明治28年 | ノバスコシア州ハリファックスのダルハウジー大学で学ぶ。 21歳 | |
1898 | 明治31年 | キャベンディッシュに戻り、祖母と暮らす。24歳 | |
1903 | 明治36年 | 東洋英和女学校に給費生として入学。10歳 | |
1908 | 明治41年 | ‘赤毛のアン’を出版。34歳 | |
1911 | 明治44年 | エワン・マクドナルドと結婚。37歳 | |
1914 | 大正3年 | 東洋英和女学校を卒業し、山梨英和女学校で英語教師として勤務。21歳 | |
1917 | 大正6年 | ‘アンの夢の家を出版。43歳 | 初の著書「爐邉」を出版。24歳 |
1919 | 大正8年 | 村岡儆三と結婚し、翻訳家としてのキャリアを開始。26歳 | |
1926 | 昭和元年 | ‘ブルー・キャッスルを出版。52歳 | |
1927 | 昭和2年 | マーク・トウェインの「The Prince and the Pauper」を翻訳。34歳 | |
1937 | 昭和12年 | ‘ジェーン・オブ・ランターン・ヒルを出版。63歳 | |
1939 | 昭和14年 | ‘アンの幸せな家庭を出版。65歳 | ‘赤毛のアン’の翻訳を開始。46歳 |
1942 | 昭和17年 | 4月24日に逝去。68歳 | |
1952 | 昭和27年 | ‘赤毛のアン’の日本語訳を出版。59歳 | |
1968 | 昭和43年 | 10月25日に逝去。75歳 |

ルーシー・モード・モンゴメリ・村岡花子の生涯のまとめ
- モンゴメリはカナダのプリンスエドワード島で生まれ、文学に情熱を注いだ
- 村岡花子は山梨県甲府市で生まれ、キリスト教の環境で育つ
- モンゴメリは「赤毛のアン」を出版し、世界的な成功を収めた
- 村岡は東洋英和女学校で英語を学び、後に教師として活動
- 村岡は村岡儆三と結婚し、翻訳家としての道を歩む
- モンゴメリはエワン・マクドナルドと結婚し、家庭生活を送る
- 村岡は「赤毛のアン」の日本語訳を完成させ、日本に紹介
- モンゴメリは多くの作品を執筆し、女性や子どもの内面を描いた
- 村岡は児童文学の翻訳に力を注ぎ、多くの作品を日本に紹介
- モンゴメリは1942年に、村岡は1968年にそれぞれ逝去
- 両者は文学における異なる道を歩みながらも、世代を超えて多くの人々に影響を与えた