2027年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公に選ばれた、小栗忠順(おぐり・ただまさ)。
「小栗上野介という名前なら聞いたことがあるけれど、何をした人なの?」
「日本の近代化に貢献したのに、どうして殺されたの?」
そんな疑問を持つ方も多いのではないでしょうか。
小栗忠順は、ひとことでいえば、江戸幕府が終わる直前に、日本を近代国家へ変えるための仕組みを作ろうとした幕臣です。
アメリカへ渡り、横須賀製鉄所の建設を進め、財政や軍隊の改革にも取り組みました。
ところが1868年、幕府が崩壊するなかで新政府軍に捕らえられ、斬首されます。
しかも、小栗が始めた仕事の一部は、その後の明治政府へ引き継がれていきました。
なぜ、そんな人物が新しい時代を見ることなく命を落としたのでしょうか。
この記事では、小栗忠順が何をした人なのか、その功績から悲劇の最期まで、史実と後世の説を分けながらたどります。

小栗忠順とは?何をした人なのか
小栗忠順は、1827年に江戸・神田駿河台で生まれた江戸幕府の幕臣です。
国立国会図書館によると、1859年に目付となり、翌1860年には日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節に参加しました。
帰国後は外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行などを務めています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 小栗忠順 |
| 読み方 | おぐり・ただまさ |
| 別称 | 小栗上野介 |
| 生没年 | 1827~1868年 |
| 身分 | 江戸幕府の幕臣・旗本 |
| 主な功績 | 遣米使節、横須賀製鉄所、財政・軍制改革 |
| 最期 | 新政府軍に捕らえられ斬首 |
なかでも大きかったのが、横須賀製鉄所の建設を進めたことです。
現在の横須賀につながる近代的な造船・機械工業の拠点を、幕府の時代から作ろうとしていました。
小栗忠順と小栗上野介は同じ人物
「小栗忠順」と「小栗上野介」は別人ではありません。
同じ人物です。
「忠順」が名前で、「上野介(こうずけのすけ)」は朝廷から授けられた官職名です。
そのため歴史書や昔の資料では「小栗上野介」と書かれることも多くあります。
「上野介」は「うえのすけ」ではなく、こうずけのすけと読みます。
まず知っておきたい3つの功績
小栗忠順の仕事を大きく分けると、次の3つが分かりやすいでしょう。
- 遣米使節としてアメリカへ渡り、近代国家の仕組みを見た
- 横須賀製鉄所の建設を進めた
- 幕府の財政・軍事・産業を近代化しようとした
小栗のすごさは、海外で新しいものを見ただけで終わらなかったところにあります。
日本でも実際に作ろうとした人でした。
アメリカで小栗忠順が見たもの
小栗忠順の人生を大きく変えたのが、1860年のアメリカ行きでした。
日米修好通商条約の批准書交換のため、日本から正式な使節団が派遣されます。
小栗は目付、つまり使節団を監察する立場で参加しました。

使節団はアメリカだけでなく、その後アフリカ、アジアを経て日本へ帰国しています。
なお、この遣米使節には福沢諭吉も参加していました。小栗忠順が使節団の監察としてポーハタン号に乗ったのに対し、福沢は随行する咸臨丸でアメリカへ渡っています。二人はその後、それぞれ異なる立場から日本の近代化に関わっていきました。
小栗忠順が乗ったのはポーハタン号
幕末のアメリカ渡航というと、勝海舟と咸臨丸を思い浮かべる人が多いかもしれません。
しかし、小栗忠順が乗って太平洋を渡ったのは咸臨丸ではありません。
正式な遣米使節団が乗ったのは、アメリカ軍艦ポーハタン号でした。
咸臨丸はその護衛・随行船として出航し、勝海舟らが乗っていました。
ちょっと一息|小栗と勝海舟は同じ船ではなかった
「遣米使節=咸臨丸」と覚えていると、小栗も勝海舟と一緒に咸臨丸でアメリカへ行ったように思えます。
実際には、小栗たち正式使節はポーハタン号。
勝海舟らは咸臨丸です。
しかも外務省によると、咸臨丸はポーハタン号より12日早くサンフランシスコへ到着しました。
同じアメリカ行きでも、二人が見た旅の風景は少し違っていたのですね。

通貨問題にも向き合った
開国した日本には、もう一つ大きな問題がありました。
日本と海外では、金と銀の交換比率が大きく異なっていたのです。
その差を利用して日本から金が海外へ流出する事態が起きていました。
小栗はアメリカで貨幣の分析や交換問題にも関わり、数字や実物を使って日本側の立場を示そうとしました。
ただし、ネット上ではこの交渉について細かな数字や劇的な会話まで紹介されていることがあります。
資料によって記述が異なる部分もあるため、「小栗が一人で通貨問題を解決した」とまで単純化するのは避けたほうがよいでしょう。
重要なのは、小栗がすでにこの時期に、外国との交渉を「精神論」ではなく、数字や技術の問題として見ていたことです。
横須賀製鉄所をつくった理由
アメリカで小栗が目にしたものの一つが、近代的な工場や海軍施設でした。
外国から軍艦を買い続けるだけでは、日本はいつまでたっても外国に頼らなければなりません。
そこで小栗は、日本国内に軍艦を造り、修理できる施設を持つ必要があると考えます。
こうして計画されたのが横須賀製鉄所です。
フランスの協力を得て、1865年に建設が始まりました。

技術面を担ったのがフランス人技師レオンス・ヴェルニーです。
「製鉄所」は鉄を作る工場だけではない
ここは少し誤解しやすいところです。
「横須賀製鉄所」という名前から、現在の製鉄所のように鉄を大量生産する工場を想像するかもしれません。
しかし横須賀市によると、当時の「製鉄所」は鉄を加工する場所という意味で使われていました。
造船、船の修理、機械加工などを行う大規模な総合工場でした。
後に横須賀造船所と呼ばれるようになります。
ちょっと一息|幕末の「製鉄所」は巨大な総合工場だった
横須賀製鉄所では、ドックや造船施設だけでなく、西洋式の時間管理や月給制度、日曜日を休日とする仕組みなども取り入れられました。
横須賀市によれば、フランス式のメートル法も工事で使用されています。
「外国の軍艦をまねる場所」というより、働き方や技術教育まで含めた近代工業の実験場だったと考えると、その大きさが分かります。
幕府がなくなっても工事は続いた
小栗にとって悲劇的なのは、横須賀製鉄所が完成する前に幕府がなくなってしまったことです。
しかし、工事そのものは止まりませんでした。
明治政府へ引き継がれ、1871年には第1号ドックが完成。
横須賀製鉄所は横須賀造船所と改称されます。
小栗本人はいなくなっても、彼が始めた事業は新しい政府のもとで残ったのです。
これが、小栗が後世に高く評価される大きな理由の一つでしょう。
小栗忠順が進めた幕府の近代化
小栗の仕事は横須賀だけではありません。
幕府が崩壊へ向かう数年間に、さまざまな改革を進めました。
軍隊を近代化しようとした
小栗はフランス式軍制の導入にも関わっています。
高崎市によると、1867年にはフランス軍事顧問団を招き、歩兵・騎兵・砲兵を組み合わせる近代的な軍事訓練を進めました。
外国製の銃を買うだけではなく、兵士の訓練や組織そのものを変えようとしたのです。
フランス語を学ぶ人材も育てた
近代的な技術を導入するには、外国語を理解できる人材も必要です。
小栗は横浜仏蘭西語伝習所の設立にも関わりました。
高崎市によれば、ここではフランス語だけでなく、数学、地理、歴史、幾何学、馬術や軍事学なども教えられていました。
つまり小栗が考えていたのは、単に「西洋の武器を買うこと」ではありません。
技術を理解し、自分たちで扱える人を育てることまで含まれていました。
「商社」という新しい仕組みも考えた
1867年、小栗は幕府の新規事業として「兵庫商社」の設立を提案しました。
国立国会図書館によると、小栗は提案書で「商社」という言葉を使用し、複数の人から資金を集める経営体を構想しています。
兵庫商社そのものは幕府崩壊によって長くは続きませんでした。
それでも、小栗の関心が軍事だけでなく、貿易や資金調達の仕組みにまで及んでいたことが分かります。
ちょっと一息|小栗忠順が持ち帰った「ネジ」
小栗忠順の話でよく登場するのが「ネジ」です。
アメリカで工業力の差を目の当たりにした小栗が、ねじを日本へ持ち帰ったという逸話が伝わっています。
2026年に高崎市で建設が進む小栗上野介記念館でも、小栗がアメリカから持ち帰ったとされる「ねじくぎ」が展示予定資料として紹介されています。
巨大な軍艦でも、大きな蒸気機関でもなく、小さなネジ。
しかし同じ寸法のネジを大量に作れるということは、それだけ精密な機械と工業技術があるということです。
小さな部品から国の工業力を見ていたと考えると、小栗という人物が少し身近に感じられます。
小栗忠順はなぜ殺されたのか
ここが、小栗忠順を調べる人がもっとも気になるところでしょう。
結論からいうと、小栗は幕府崩壊時に新政府への抗戦を主張した人物であり、その後も新政府側から反抗の可能性を疑われ、捕らえられて処刑されました。
ただし、
「有能だったから新政府に恐れられて殺された」
と一言で説明できるほど単純ではありません。
鳥羽・伏見の戦い後も抗戦を主張した
1868年、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れます。
江戸へ戻った徳川慶喜に対して、小栗は抗戦を主張しました。
しかし慶喜は新政府への恭順へ傾き、小栗は幕府の役職を罷免されます。
国立国会図書館も、小栗について「戊辰戦争に際し強硬な抗戦論を主張して罷免」と説明しています。
権田村へ移った小栗
幕府を離れた小栗は、自分の知行地だった上野国群馬郡権田村、現在の群馬県高崎市倉渕町へ移りました。
東善寺で暮らしながら、土地を開き、屋敷を建てる準備などを進めます。
ところが、新政府側は小栗を警戒していました。
館林市の資料によると、小栗は権田村へ移った後も「新政府に対抗する危険人物」と見られ、屋敷の建設工事も不穏な行動と判断されました。
そして逮捕命令が出されます。
新政府側は小栗を「反抗の可能性がある人物」とみた
当時の記録には、小栗について「不軌を図る」「守備を修むる」といった情報が新政府側に伝えられていたことが残っています。
つまり、新政府軍側から見ると、
「元幕府の重要人物で、直前まで抗戦を主張していた小栗が、領地で軍事行動を準備しているのではないか」
という疑いがあったことになります。
小栗は捕らえられ、1868年閏4月6日、現在の暦で5月27日、烏川の河原で斬首されました。
高崎市の年表では、当時の数え年で42歳とされています。
「有能すぎたから殺された」は史実なのか
小栗については、
「新政府は小栗の能力を恐れていた」
「生かしておけば新政府の脅威になるので処刑した」
という説明を見かけることがあります。
確かに、小栗が幕府の有力な実務官僚であり、直前まで抗戦を唱えていたことは確認できます。
しかし、「能力を恐れたことが処刑の本当の理由だった」と断定できる一次資料までは確認できません。
ここは史実と推測を分けたほうがよいでしょう。
確認できるのは、
| 確認できること | 断定できないこと |
|---|---|
| 小栗は抗戦を主張した | 有能すぎたので殺された |
| 慶喜から罷免された | 新政府が小栗個人を特別に恐れていた |
| 権田村へ移った | 徳川埋蔵金が処刑理由だった |
| 新政府側から反抗を疑われた | 特定人物の私怨で殺された |
| 新政府軍に捕らえられ斬首された | 処刑理由を一つだけに特定すること |
高崎市は現在、小栗について「無実の罪を着せられ」斬首されたと紹介しています。
一方、当時の新政府側には、小栗が反抗を企てているという情報が伝えられていました。
この二つを分けて見ることが、小栗の最期を理解するうえで大切です。
勝海舟とは本当にライバルだった?
2027年の大河ドラマでは、小栗忠順と勝海舟の関係も大きな見どころになりそうです。
『逆賊の幕臣』では、小栗を松坂桃李さん、勝海舟を大沢たかおさんが演じます。
二人はともに海外へ目を向け、幕府の近代化に関わった幕臣でした。
ただし、幕府が崩壊する局面では道が分かれます。
| 小栗忠順 | 勝海舟 |
|---|---|
| 幕府の力を残して抗戦する道を主張 | 戦争拡大を避ける道へ |
| 罷免され権田村へ | 江戸城無血開城へ関わる |
| 1868年に処刑 | 明治時代まで生きる |
そのため「ライバル」と紹介されることがあります。
ただ、二人を最初から最後まで敵対していた宿敵と考えるのは単純すぎます。
同じ幕府の中で近代化の必要性を感じながら、幕府の最期に選んだ道が違った二人と見るほうが分かりやすいでしょう。
妻・みちと子孫はどうなった?
2027年大河『逆賊の幕臣』では、小栗の妻「みち」を上白石萌音さんが演じます。
史料では道子(みちこ)とも記され、小栗の処刑後も小栗家の血筋は続きました。
そして2026年現在、ちょっと驚くつながりがあります。
漫画『花さか天使テンテンくん』などで知られる漫画家・小栗かずまたさんが、自身を小栗忠順の玄孫(やしゃご)で、小栗家17代目と紹介しています。
さらに2026年7月から『最強ジャンプ』で、
『小栗忠順物語~ボクのひいひいおじいちゃん~』
の連載を始めました。
幕末に処刑された人物の子孫が、約160年後に自分の先祖を漫画に描いている。
大河ドラマとはまた違う、小栗忠順への入口になりそうです。
2027年大河『逆賊の幕臣』では松坂桃李が小栗忠順を演じる
2027年NHK大河ドラマ第66作は『逆賊の幕臣』です。
2026年8月現在、主な出演者として、
- 小栗忠順:松坂桃李さん
- 勝海舟:大沢たかおさん
- 妻・みち:上白石萌音さん
などが発表されています。
脚本は安達奈緒子さん。
高崎市によると、初回放送は2027年1月10日に決定しています。
大河では「勝者」である明治政府側ではなく、これまで歴史の敗者として扱われることの多かった幕臣側から幕末が描かれます。
小栗の横須賀製鉄所、外国との交渉、勝海舟との違い、そして権田村で迎える最期がどのように描かれるのか注目です。
なお、小栗忠順は大河ドラマ初登場ではありません。
2021年の『青天を衝け』では、武田真治さんが小栗忠順を演じています。
今回は脇役ではなく、初めて小栗自身が大河ドラマの主人公になります。
よくある質問
小栗忠順と小栗上野介は同じ人ですか?
はい、同じ人物です。
忠順が名前で、「上野介」は官職名です。読み方は「こうずけのすけ」です。
小栗忠順はなぜ殺されたのですか?
幕府崩壊時に抗戦を主張したため罷免され、その後移住した権田村でも新政府側から反抗を企てていると疑われ、捕らえられて処刑されました。
ただし「有能すぎたので恐れられて殺された」といった説明まで史実として断定することはできません。
小栗忠順は『青天を衝け』にも出ていますか?
はい。
2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』では、武田真治さんが小栗忠順を演じました。
小栗忠順の子孫は現在もいますか?
漫画家の小栗かずまたさんが、自身を小栗忠順の玄孫、小栗家17代目と紹介しています。
2026年には先祖・小栗忠順を題材にした漫画の連載も始めています。
小栗忠順と徳川埋蔵金は関係がありますか?
小栗忠順は「徳川埋蔵金伝説」にしばしば登場します。
幕府の財政を担当した勘定奉行だったことなどから、幕府の金を隠した人物として伝説が広がりました。
しかし、小栗が徳川埋蔵金を実際に隠したことを証明する史料は確認されていません。
面白い伝説ではありますが、史実とは分けて考える必要があります。
まとめ|小栗忠順が残したものは、本人の死後も生き続けた
小栗忠順は、幕末の江戸幕府に仕えながら、日本を近代国家へ変えようとした人物でした。
アメリカへ渡り、横須賀製鉄所を計画し、軍制や人材育成、経済の仕組みまで変えようとしています。
しかし鳥羽・伏見の戦い後も抗戦を主張したことで幕府を追われ、権田村へ移住。
新政府側から反抗を疑われ、1868年に斬首されました。
小栗本人は明治という時代を見ることができませんでした。
それでも横須賀製鉄所をはじめ、彼が幕末に始めた仕事の一部は明治政府へ受け継がれていきます。
幕府は滅びても、幕臣が作ったものまで消えたわけではありませんでした。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』を見るとき、「逆賊」と呼ばれた側にも新しい日本を作ろうとしていた人々がいたことを知っておくと、幕末の景色が少し違って見えてくるのではないでしょうか。
参考文献・出典
- 国立国会図書館「小栗忠順|近代日本人の肖像」
- 外務省「外交史料 Q&A 幕末期」
- 高崎市「大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公 小栗上野介忠順」
- 横須賀市「横須賀の誇り!横須賀製鉄所(造船所)」
- 館林市「小栗上野介忠順と館林」
- 国立国会図書館「幕末・明治初期の商社誕生に関わった人々」
- NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』関連発表
- 小栗かずまた「子孫の僕が、来月より小栗忠順の漫画を雑誌で連載します!!」
