「芸術は爆発だ!」の言葉や、大阪・万博記念公園にそびえる「太陽の塔」で知られる岡本太郎。
強烈な生命力を感じさせる人物だけに、「何歳まで生きたの?」「何が原因で亡くなったの?」と気になる方も多いのではないでしょうか。
岡本太郎は1996年1月7日、急性呼吸不全のため84歳で亡くなりました。
晩年にはパーキンソン病を患っていましたが、川崎市岡本太郎美術館などの公式年表に記載されている死因は「急性呼吸不全」です。
しかし、岡本太郎の84年間をたどってみると、死因以上に驚かされる人生が見えてきます。
パリで前衛芸術の真っただ中に飛び込み、戦争ですべてを失い、縄文土器に衝撃を受け、やがてあの「太陽の塔」を生み出しました。
この記事では、岡本太郎の最期から生涯、代表作、岡本敏子との関係まで、公式資料をもとに分かりやすくひもといていきます。
岡本太郎の死因は急性呼吸不全|84歳で死去
岡本太郎は1996年1月7日、84歳で亡くなりました。
川崎市岡本太郎美術館と岡本太郎記念館の年表には、ともに死因として「急性呼吸不全」と記されています。
東京文化財研究所の資料では、東京都新宿区の慶應義塾大学病院で亡くなったことも確認できます。
1911年2月26日生まれだったため、85歳の誕生日を迎える約1か月半前のことでした。
晩年にはパーキンソン病を患っていた
岡本太郎は晩年、パーキンソン病を患っていました。
岡本太郎記念館も、晩年にはパーキンソン病によって活動が停滞した時期があったことを紹介しています。
ただし、
「パーキンソン病=岡本太郎の死因」
とそのまま書くのは少し注意が必要です。
公式年表が明記している死因は、あくまで急性呼吸不全です。
最期の年まで展覧会が開かれていた
病気を患っていたとはいえ、岡本太郎の名前が芸術界から消えていたわけではありません。
亡くなる前年の1995年には、84歳で「岡本太郎展」が大阪・髙島屋から広島市現代美術館へ巡回しています。
80歳を迎えた1991年には主要作品を川崎市へ寄贈し、それが後の川崎市岡本太郎美術館へとつながりました。
最期まで「岡本太郎」という存在は、社会の中で動き続けていたのです。
岡本太郎とは何をした人?生涯を簡単に
岡本太郎は、1911年に現在の神奈川県川崎市で生まれた芸術家です。
父は漫画家の岡本一平(おかもと いっぺい)、母は歌人・小説家の岡本かの子。
絵画だけでなく、彫刻、壁画、写真、デザイン、書、建築、評論など、ジャンルに収まらない活動を続けました。
絵画や彫刻にとどまらず、1955年には北大路魯山人や丹下健三らを招いて「実験茶会」を開くなど、生活そのものを表現の場にしていました。
岡本太郎のプロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年月日 | 1911年2月26日 |
| 出生地 | 現在の神奈川県川崎市高津区二子 |
| 父 | 岡本一平 |
| 母 | 岡本かの子 |
| 職業 | 芸術家 |
| 代表作 | 太陽の塔、明日の神話、重工業など |
| 死去 | 1996年1月7日 |
| 享年 | 84歳 |
| 死因 | 急性呼吸不全 |
岡本太郎の生涯年表
| 年 | 年齢 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1911年 | 0歳 | 現在の川崎市に生まれる |
| 1929年 | 18歳 | 東京美術学校入学、家族と渡欧 |
| 1930年 | 19歳 | パリに到着し一人で残る |
| 1940年 | 29歳 | ドイツ軍のフランス侵攻を受け帰国 |
| 1942年 | 31歳 | 兵役につき中国戦線へ |
| 1946年 | 35歳 | 復員。戦災による作品焼失を知る |
| 1951年 | 40歳 | 東京国立博物館で縄文土器に衝撃 |
| 1952年 | 41歳 | 「縄文土器論」を発表 |
| 1967年 | 56歳 | 大阪万博テーマ展示プロデューサーに就任 |
| 1970年 | 59歳 | 「太陽の塔」を含むテーマ館完成 |
| 1981年 | 70歳 | CMで「芸術は爆発だ!」が流行 |
| 1996年 | 84歳 | 急性呼吸不全で死去 |
こうして年表にしてみると、岡本太郎の人生には、何度も大きな転換点があったことが分かります。
その最初の大きな転換点が、パリでした。
パリで芸術家・岡本太郎が生まれた
1929年、18歳の岡本太郎は東京美術学校へ入学します。
ところが同年12月、ロンドン軍縮会議を取材する父・岡本一平に同行し、一家でヨーロッパへ向かいました。
翌1930年にパリへ到着すると、両親はロンドンへ向かいます。
19歳の太郎は一人、パリに残りました。
ここから約10年にわたるパリ生活が始まります。
ピカソの「作品」に衝撃を受けた
岡本太郎とピカソについては、「若い頃からピカソと交流していた」と紹介されることがあります。
実際は少し違います。
1932年、岡本太郎はパリの画廊でピカソの作品《水差しと果物鉢》を見て強い衝撃を受け、抽象芸術へ向かいました。
ピカソ本人と会うのはもっと後です。
岡本太郎記念館の年表によれば、1953年に南フランスのピカソのアトリエを訪ね、本人と会っています。
つまり、
作品との出会いが1932年、本人との対面は1953年。
ピカソの生涯や作品については、パブロ・ピカソの記事でも紹介しています。
バタイユやマルセル・モースとの出会い
パリ時代の岡本太郎は、美術だけを学んでいたわけではありません。
パリ大学で学び、民族学者マルセル・モースのもとで民族学にも取り組みました。
また、思想家ジョルジュ・バタイユとも親交を深めています。
芸術、哲学、民族学。
一見まったく違う分野ですが、後に岡本太郎が縄文文化や日本各地の祭りに強く惹かれていく背景には、このパリ時代の経験もありました。

戦争ですべてを失いゼロから再出発
1940年、ドイツ軍がフランスへ侵攻します。
岡本太郎は同年6月、帰国船で日本へ戻りました。
1942年には兵役につき、中国戦線へ送られます。
終戦後もすぐには帰国できず、約半年の俘虜生活を経て1946年に復員しました。
そこで待っていたのは、さらに大きな喪失でした。
青山の家は空襲で焼け、パリ時代の作品も失われていたのです。
華やかなパリで築いてきたものが消えてしまった。
それでも岡本太郎は、35歳から再び芸術家として歩き始めました。
縄文土器との出会いが日本美術の見方を変えた
戦後の岡本太郎を語るうえで外せないのが、縄文土器との出会いです。
1951年、40歳の岡本太郎は東京国立博物館で縄文土器を見て衝撃を受けます。
翌1952年には、その感動を「四次元との対話―縄文土器論」として美術雑誌『みづゑ』に発表しました。
現在では縄文土器を美術品として見ることは珍しくありません。
しかし当時は、主に考古学的な資料として扱われていました。
川崎市岡本太郎美術館は、岡本太郎が縄文土器を日本の始原的な美術として提言したことを紹介しています。
ここが面白いところです。
パリで最先端の西洋美術を知った岡本太郎が、日本へ戻って目を奪われたのは、はるか昔の縄文土器でした。
「新しいもの」だけを追い続けた人ではなかったのです。
むしろ、人間の根っこにある生命力を探していた人物と考えると、後の太陽の塔も少し違って見えてきます。
ちょっと一息|岡本太郎は「宇宙人」までデザインしていた
太陽の塔を見て「どこか宇宙人っぽい」と感じたことはありませんか。
実は岡本太郎、本当に宇宙人をデザインしています。
1956年公開のSF映画『宇宙人東京に現わる』で、宇宙人などのデザインと色彩指導を担当しました。
登場する「パイラ星人」は、人間型ではなく、大きな目を持ったヒトデのような姿をしています。
国立映画アーカイブによると、この作品は日本初のカラーSF映画。岡本太郎が宇宙人や宇宙ステーションのデザインに関わったことも、当時話題になりました。
美術館の巨匠というイメージからは少し意外ですが、岡本太郎は映画の宇宙人まで手がけるほど、表現のジャンルにこだわらない人だったのです。
太陽の塔はなぜ作られた?

岡本太郎の代表作といえば、やはり「太陽の塔」でしょう。
1970年、大阪で日本万国博覧会が開催されました。
岡本太郎はテーマ展示プロデューサーを務め、会場中央に高さ約70メートルの太陽の塔を出現させました。
3つの顔は過去・現在・未来
太陽の塔には、大きく3つの顔があります。
- 頂部の「黄金の顔」=未来
- 正面の「太陽の顔」=現在
- 背面の「黒い太陽」=過去
塔の内部には、高さ約41メートルの「生命の樹」が設けられ、生命の進化を表現しています。
つまり太陽の塔は、単に変わった形をした巨大な彫刻ではありません。
過去・現在・未来を貫く生命そのものを表そうとした作品でした。
「進歩と調和」だけではなかった太陽の塔
1970年大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」でした。
高度経済成長期の日本で、各国が科学技術や未来像を競っていました。
ところが岡本太郎が会場中央に置いたのは、洗練された未来都市のような建物ではありません。
巨大で、どこか原始的で、不思議な顔を持つ塔でした。
岡本太郎記念館は、彼が万博という近代主義の価値観に対し、人間の根源へ立ち返るメッセージを込めたことを紹介しています。
未来へ進むことばかりが、本当に人間の幸せなのか。
そう考えると、太陽の塔が今なお古びて見えない理由も少し分かる気がします。
ちょっと一息|太陽の塔には「第4の顔」があった
現在、外から見える顔は3つです。
ところが1970年の大阪万博当時、地下展示にはもう一つ、「地底の太陽」と呼ばれる巨大な第4の顔がありました。
高さ約3メートル、全長約11メートル。
ところが万博終了後、オリジナルの「地底の太陽」は行方が分からなくなり、現在も発見されていません。
現在の太陽の塔内部にあるものは、当時の資料をもとに復元されたものです。
巨大な太陽の「顔」が一つ消えたまま。
太陽の塔には、今も小さな謎が残っています。
「芸術は爆発だ!」は大阪万博の言葉ではない
「岡本太郎」と聞いて、
「芸術は爆発だ!」
という言葉を思い浮かべる方も多いでしょう。
太陽の塔のイメージが強いため、1970年の大阪万博で生まれた言葉のように感じますが、広く知られるきっかけになったのは、それより後のことでした。
1981年、岡本太郎は日立マクセルのビデオカセットのCMに出演。
そこで発した「芸術は爆発だ!」という言葉が大きな話題となり、岡本太郎を象徴する言葉として広く知られるようになります。
このとき岡本太郎は70歳。
若い前衛芸術家が勢いのまま発した言葉のようにも聞こえますが、実は人生の後半になって広く知られるようになった言葉なのです。
年齢を重ねてもなお「爆発」という言葉が似合うところに、岡本太郎らしさを感じます。
ちょっと一息|椅子なのに「坐ることを拒否する」?
1963年、52歳の岡本太郎は、なんとも不思議な名前の作品を作りました。
その名も、《坐ることを拒否する椅子》。
陶磁で作られた椅子には、ぎょろりとした目や顔のような模様があり、座ろうとすると、まるで椅子の方からこちらを見返してくるようです。
岡本太郎は、体がすっぽり収まって動きたくなくなるような椅子に違和感を持ち、椅子も人間に従うだけの道具ではなく、人間と対等に向き合う存在であってほしいと考えていました。
つまり、「座り心地のよい椅子」を作ろうとしたのではなく、座る人の気持ちまで揺さぶる椅子を作ったのです。
そして面白いことに、現在の川崎市岡本太郎美術館では、《坐ることを拒否する椅子》の一部に実際に座ることができます。
「拒否する」と言いながら座らせてくれる。
そんなところまで、なんとも岡本太郎らしい作品です。
岡本太郎に妻はいた?岡本敏子との関係
「岡本太郎 妻」もよく検索されている言葉です。
岡本太郎には、長年生活と仕事をともにした岡本敏子(おかもと としこ)という女性がいました。
ただし、一般的な「夫と妻」という関係として説明すると少し不正確です。
川崎市岡本太郎美術館は敏子を岡本太郎の養女と記載しています。
一方、実生活では長年のパートナーとして太郎を支えました。
岡本太郎の死後は、その作品と思想を後世へ残すために奔走します。
1998年には、太郎が42年間暮らして制作を続けた南青山の自宅兼アトリエを岡本太郎記念館として公開しました。
太郎が亡くなった後も、岡本太郎という存在を社会へつなぎ続けたのが敏子だったのです。
岡本太郎の死後|お別れ会・墓・記念館
岡本太郎が亡くなった翌月、1996年2月には草月会館で「岡本太郎と語る広場」というお別れ会が開かれました。
その後も岡本太郎の作品は残り続けます。
1998年には東京・南青山に岡本太郎記念館、1999年には川崎市の生田緑地に川崎市岡本太郎美術館が開館しました。
墓所は東京都の多磨霊園にあります。
東京都も多磨霊園の著名人墓所として岡本太郎の墓を紹介しています。
そして墓にも、普通の墓石とは違う岡本太郎らしさがあります。
岡本太郎記念館によれば、墓碑には作品《若い夢》が使われています。
死後まで作品がそこにある。
それもまた、岡本太郎らしい姿なのかもしれません。
岡本太郎の言葉をもっと知りたい人へ
現在の記事で紹介していた『孤独がきみを強くする』は、残して大丈夫です。
ただし、一つ大切な補足があります。
『孤独がきみを強くする』
『孤独がきみを強くする』は、2016年12月に刊行された本です。
岡本太郎が亡くなったのは1996年なので、本人の死から約20年後に出版されています。
岡本太郎の言葉をもとに、岡本太郎記念館館長の平野暁臣さんがプロデュース・構成した一冊です。
「岡本太郎が晩年に書き下ろした本」ではありません。
その点を理解したうえで読むと、彼の言葉や生き方に触れる入り口として楽しめます。
『孤独がきみを強くする』
※販売状況や価格は変動するため、最新情報はAmazonの商品ページで確認してください。
『自分の中に毒を持て』
もう一冊紹介するなら、私は『自分の中に毒を持て』の方を強く入れたいです。
こちらは岡本太郎本人が生きていた1993年に文庫版が刊行された人生論で、現在は新装版も出版されています。
作品だけではなく、
「岡本太郎という人が、どんな姿勢で人生を生きていたのか」
を知りたい人に向いています。
『自分の中に毒を持て〈新装版〉』
※販売状況や価格は変動するため、最新情報はAmazonの商品ページで確認してください。
岡本太郎についてよくある質問
岡本太郎の死因は何ですか?
公式年表では急性呼吸不全です。
岡本太郎は1996年1月7日に84歳で亡くなりました。晩年にパーキンソン病を患っていましたが、公式資料では死因を「急性呼吸不全」としています。
岡本太郎は何歳で亡くなりましたか?
84歳です。
1911年2月26日生まれで、1996年1月7日に亡くなりました。85歳の誕生日を迎える前でした。
岡本太郎は何をした人ですか?
戦後日本を代表する前衛芸術家です。
絵画だけでなく、彫刻、壁画、写真、デザイン、建築、評論など幅広い分野で活動しました。代表作として1970年大阪万博の「太陽の塔」や巨大壁画「明日の神話」が知られています。
岡本太郎に妻はいましたか?
法律上の妻としてではなく、岡本敏子が長年のパートナーとして岡本太郎を支えました。
川崎市岡本太郎美術館では敏子を岡本太郎の「養女」と記載しています。太郎の死後は作品や思想を後世へ伝える活動に力を注ぎました。
岡本太郎の「死は祭りだ」は本当に本人の名言ですか?
ネット上では岡本太郎の言葉として広く紹介されています。
ただし、今回確認した岡本太郎記念館・川崎市岡本太郎美術館などの公式資料では、発言の原典を特定できませんでした。
そのため本記事では、岡本太郎本人の確実な言葉としては引用していません。
まとめ
岡本太郎は、1996年1月7日に急性呼吸不全で亡くなりました。84歳でした。
晩年にはパーキンソン病を患っていましたが、公式年表で確認できる死因は急性呼吸不全です。
しかし岡本太郎の人生をたどってみると、最期以上に印象に残るのは、その生き方かもしれません。
19歳でパリに残り、前衛芸術や民族学を学ぶ。
戦争によって作品を失っても、35歳から再出発する。
40歳で縄文土器に衝撃を受け、59歳で太陽の塔を完成させ、70歳になって「芸術は爆発だ!」という言葉でお茶の間まで席巻する。
岡本太郎は、一つのスタイルを守った人というより、年齢を重ねても何度も自分を更新し続けた人だったのでしょう。
太陽の塔を次に見るときには、奇抜な形だけではなく、その奥にある「生命」や「人間の根源」にも目を向けてみると、今までとは少し違って見えるかもしれません。
参考文献・出典
- 岡本太郎記念館「岡本太郎年表」
- 岡本太郎記念館「岡本太郎とは」
- 川崎市岡本太郎美術館「岡本太郎年表」
- 東京文化財研究所「岡本太郎」
- 万博記念公園「太陽の塔」
- 岡本太郎記念館「岡本敏子の想い」
- 東京都「多磨霊園 開園100周年記念事業」
- 興陽館『孤独がきみを強くする』
- 青春出版社『自分の中に毒を持て』

