三淵嘉子の家族—女性弁護士の道を支えた家族の絆と生涯
日本の法律史において画期的な役割を果たした三淵嘉子さん。
彼女は単なる弁護士ではなく、多くの「初」を成し遂げた女性法律家です。
今回のブログでは、彼女がどのようにして法律界の壁を破り、女性弁護士として新たな道を切り開いたのかを探ります。
三淵嘉子さんの物語は、ただの歴史的な記録に留まらず、今日の私たちにとっても大きな意味を持っています。
彼女の生きた道と、彼女が残した遺産について、一緒に深く掘り下げていきましょう。
三淵嘉子朝ドラの主人公
三淵嘉子さんとは
三淵嘉子(みぶち よしこ)さんは、日本初の女性弁護士の一人であり、その後も初の女性判事及び家庭裁判所長となるなど、法律界で多くの「初」を成し遂げた注目すべき人物です。
彼女の生涯は、2024年春のNHKの連続テレビ小説『虎に翼』の主人公のモデルに。
生年月日と出生地
1914年(大正3年)11月13日、三淵嘉子(旧姓武藤)はシンガポールで台湾銀行に勤める武藤貞雄(旧姓宮武)の長女として誕生しました。
父・武藤貞雄は丸亀中学、一高を経て東京帝国大学を卒業後、台湾銀行に勤務し、その後ニューヨークにも赴任しました
この間、嘉子さんらは香川県の丸亀で生活していました。1920年(大正9年)、一家は日東京渋谷区に居を構えました。
生い立ちと経歴
明治大学法学部の卒業とキャリアの始まり
三淵嘉子さんの法律への道のりは、彼女が東京府青山師範学校附属小学校を卒業し、1932年に東京女子師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学付属高等学校の前身)を卒業したことから始まります。
この時、彼女は法律の学びを深める決意を固めました。
1933年(昭和8年)の弁護士法改正は、女性にも弁護士資格の道を開く重要な一歩でした。
これまでの法律では、「日本臣民で成年以上の男子」という条件が弁護士資格の取得に必要でしたが、この改正により、女性も弁護士になることが認められるようになりました。
この新しい機会を活かして、三淵嘉子さんは明治大学専門部女子部法科に進学しました。
この時期の法科は、女性が弁護士になるための唯一の道であり、その後、彼女は明治大学法学部に編入しました。
学生時代、彼女は学問に対する熱意を持ち、男子学生に負けないほどの成績を収めました。
彼女の努力は1938年(昭和13年)11月1日に実を結び、高等試験司法科試験に合格しました。
この合格は、日本における女性の社会進出において画期的な出来事であり、女性が法律の職に進む道を開く重要な一歩となりました。
三淵嘉子さんは、この合格を通じて、女性が法律の分野で活躍できることを証明し、後進の女性法律家たちに道を示しました。
三淵嘉子さんの「初」の偉業
日本初の女性弁護士としての道
三淵嘉子さんは、1938年(昭和13年)11月1日に高等文官試験司法科に合格し、法律専門家としての資格を得ました。
彼女はその後、1940年(昭和15年)に正式に弁護士として登録され、実際の弁護士活動を開始しました。
この偉業は、当時の社会において女性に対して存在した多くの職業的な障壁を打ち破るものでした。
彼女の成功は、今後の法律界における女性の進出に向けた道を切り開いたことになります
日本初の女性裁判官及び家庭裁判所長
三淵嘉子さんは、法律の分野においてさらなる画期的な足跡を残しました。
彼女は日本で初めて女性裁判官の地位を獲得し、その後、家庭裁判所長としても活躍しました。
この成果は、法律界における女性の役割と可能性を大きく広げるものであり、当時の社会における女性の地位向上に重要な意味を持ちました。
彼女が裁判官になる道のりは簡単なものではありませんでした。
彼女は1946年(昭和21年)に最初の夫である和田芳夫が亡くなった後、経済的自立を目指し1947年(昭和22年)戦後の男女平等が進む中、嘉子さんは自らのキャリアを更に推し進めるため、裁判官採用願を司法省に提出しました。
当時、女性が司法官に採用されることは前例がなく、彼女の採用は司法界における新たな歴史の一歩となりました。
彼女は最初、司法省民事部で勤務し、その後家庭局で親族法、相続法、家事審判所の問題などに携わりました。
これらの経験を積んだ後、三淵嘉子さんは家庭裁判所長に就任し、日本の家庭法分野において重要な役割を果たしました。
三淵嘉子さんのこれらの業績は、女性が法律の分野で重要な地位を獲得し、影響力を持つことができることを示しました。
彼女の成功は、女性法律家の道を開き、今日の多くの女性裁判官や法律家にとってインスピレーションとなっています。
三淵嘉子さんの生涯と業績は、日本の法律史において重要なマイルストーンとして記憶されています。
家族構成と結婚生活
三淵嘉子の結婚と家族生活
三淵嘉子さんは、最初の夫である和田芳夫さんと1941年(昭和16年)11月5日に結婚しました。
1943年(昭和18年)1月には、長男の和田芳武さんが誕生。
しかし、夫の芳夫さんは1944年(昭和19年)6月に召集され、1946年(昭和21年)5月23日に終戦後の引き揚げ途中、長崎で病死しました。
その後、三淵嘉子さんは1956年(昭和31年)に裁判官の三淵乾太郎さんと再婚し、新たな家庭を築きました。
三淵家の新たな支えとなった乾太郎さんとの結婚生活は、彼女の法律活動を続ける大きな力となりました。
息子・和田芳武の成長
長男の和田芳武さんは、三淵嘉子さんと和田芳夫さんとの間に生まれました。
父の死後、母親の三淵嘉子さんと共に成長し、彼女の活動を間近で支え続けました。
三淵嘉子の死と家族の悲しみ
1984年5月28日午後8時15分、三淵嘉子さんは骨癌のため69歳で亡くなりました。
彼女の死は、法律界における女性の地位向上に多大な貢献を果たした偉大な人物の終焉を意味し、家族にとっても大きな喪失でした。
三淵嘉子家族の軌跡と支え
三淵嘉子さんの人生において、家族の支えは彼女の挑戦と成功の大きな源でした。
特に、最初の夫である和田芳夫さんとの家庭、そして再婚後の三淵乾太郎さんとの生活は、彼女の法律活動を支える重要な要素となりました。
三淵嘉子さんの家族の物語は、女性として法律の世界で戦い続けた彼女の生涯と深く結びついています。
三淵嘉子さんとその時代の他の女性弁護士
1938年(昭和13年)11月1日は、日本の法律史において特筆すべき日でした。
この日、三淵嘉子さんは中田正子さん、久米愛さんとともに、高等文官試験司法科試験に合格し、日本初の女性弁護士となりました。
この歴史的な快挙は、当時の社会における女性の地位に革命をもたらし、女性の社会進出における新たな扉を開きました。
中田正子さん
中田正子さん(1910年12月1日 – 2002年10月15日91歳没)は、日本の法律界における女性の地位向上に大きな影響を与えた先駆者です。
東京都文京区で生まれた彼女は、明治大学法学部を卒業し、その後、日本大学法文学部選科も修了しました。
中田さんは、日本初の女性弁護士の一人であり、鳥取県弁護士会長や日本弁護士連合会理事を歴任しました。
彼女はまた、鳥取家庭裁判所の調停員や参与としても活躍し、藍綬褒章や勲四等瑞宝章を受章するなど、その業績は広く認められました。
久米愛さん
久米愛さん(1911年7月7日 – 1976年7月14日65歳没)は、日本の女性運動において重要な役割を果たした人物です。
大阪府出身の久米さんは、津田塾大学の前身である津田英学塾を経て、明治大学専門部女子部に進学しました。
彼女もまた、中田さんや三淵嘉子さんと共に日本初の女性弁護士の一人となりました。
久米さんは、明治大学短期大学で教授を務め、日本婦人法律家協会を設立し、26年間会長を務めるなど、女性の法的地位向上に尽力しました。
また、国連総会に政府代表として出席し、国際的な舞台でも女性の権利拡大に貢献しました。
関連本の紹介
三淵嘉子朝ドラのまとめ
- 三淵嘉子は1914年11月13日、シンガポールで生まれた
- 父は台湾銀行に勤め、家族は後に日本に帰国
- 東京女子師範学校附属高等女学校卒業後、法律を学ぶ決意を固める
- 明治大学法学部卒業
- 1938年、中田正子、久米愛と共に日本初の女性弁護士の一人に
- 1941年に和田芳夫と結婚、後に夫が戦病死
- 1947年、裁判官採用願を提出、司法省民事部に入る
- 親族法、相続法、家事審判所問題に携わる
- 日本初の女性裁判官及び家庭裁判所長に
- 法律界での女性の地位向上に貢献
- NHK連続テレビ小説『虎に翼』の主人公のモデル
- 女性の社会進出における大きな一歩として評価