福沢諭吉というと、『学問のすゝめ』や慶應義塾を思い浮かべる人が多いでしょう。
ところが、意外に検索されているのが「福沢諭吉の女性関係」です。
妻以外に愛人や妾がいたのでしょうか。
今回、慶應義塾や福澤研究センターの資料を中心に確認しましたが、福沢自身に特定の愛人や妾がいたと確認できる記述は、今回確認した公式の年譜や家族資料では見つかりませんでした。
ただし、これだけで「絶対にいなかった」と断定するのも適切ではありません。
そこでこの記事では、妻・錦との結婚や夫婦生活、9人の子供、子孫、さらに福沢が考えていた男女関係まで見ていきます。
調べてみると、お札の肖像から受ける少し堅い印象とは違う、かなり人間味のある福沢諭吉が見えてきました。

福沢諭吉に愛人や妾はいた?
結論からいうと、福沢諭吉に特定の愛人や妾がいたと断定できる記録は、慶應義塾の公式年譜や家族に関する資料では確認できません。
妻として確認できるのは、錦(きん)です。
一方、福沢は男女のあり方について多くの文章を残しています。
『品行論』などでは一夫一婦について論じ、男女は人間として対等であるという考えを示しました。
ただし、福沢の女性論をそのまま現代の「男女平等」と同じものとして考えるのは注意が必要です。
女性の教育や自立を重視する先進的な考えを持つ一方で、妾制度などをめぐる福沢の考え方については、研究者から限界を指摘する見方もあります。
そのため、「福沢には愛人が何人もいた」と断定するのも、「現代と同じ感覚の男女平等主義者だった」と考えるのも、どちらも正確とはいえません。
むしろ、明治という時代の中で福沢が男女の関係をどのように考えていたのかを見ると、福沢諭吉という人物の複雑さが見えてきます。
妻・錦とはどんな女性だった?
錦(きん)は1845年、江戸・汐留にあった中津藩邸で生まれました。
父は中津藩士の土岐太郎八です。
一方、福沢諭吉は1835年、大坂の中津藩蔵屋敷で生まれました。幼いころに父を亡くし、その後、家族とともに中津へ戻っています。
1861年に錦と結婚
福沢と錦が結婚したのは1861年の冬です。
当時、錦は17歳、福沢は26歳ごろでした。
実は2人にはかなりの身分差がありました。
錦の実家・土岐家は250石の上士。一方、福沢家は13石2人扶持の下士でした。
それでも結婚できた背景には、錦の父が福沢の実力を評価していたことや、福沢が幕府の仕事に就いていたことなどがあったと考えられています。
錦は福沢の親戚だった?
錦について、「福沢諭吉の叔父の娘だった」と紹介されることがありますが、福沢家と錦の実家である土岐家に血縁関係はありません。
福沢自身が残した記録でも、両家に親戚関係はなかったことが確認できます。
また、福沢は大坂に生まれて中津で育ち、錦は江戸で育っています。
そのため、二人を「幼なじみ」とする説明についても、今回確認した公式資料では裏づける記録は確認できません。

夫婦で家計簿をつけていた
福沢は夫婦について、どちらか一方が勝手に決めるのではなく、話し合うことを大切にすべきだと考えていました。
そして、これは理想論だけではありません。
福沢夫妻は毎月末になると、帳面とそろばんを出して、2人で家計簿をつけていたことが伝えられています。
留学中の息子への手紙にも、母・錦と相談したことを示す表現が残っています。
大きな思想を語った人物ですが、家庭では夫婦でそろばんを囲んでいた。
こういう場面を想像すると、福沢諭吉が少し身近に感じられます。
ちょっと一息|妻から逃げ回った福沢諭吉
錦は上級武士の家で育ったため、夫が帰宅すると丁寧に出迎えてお辞儀をしていました。
ところが福沢は、この形式ばった出迎えがどうも苦手だったようです。
そこで、わざと裏口から家に入り、出迎えようとする錦から逃げたこともあったそうです。
錦が追いかけ、福沢が逃げる。
まるで追いかけっこのようになり、最後は錦の方があきらめたと伝えられています。
男女の古いしきたりを嫌った福沢らしい話ですが、その一方で旅行先では着物の始末や歯みがきの準備まで錦を頼りにしていたそうです。
このあたりは、なんとも人間らしいですね。
福沢諭吉の家族構成|4男5女の9人
福沢諭吉と錦の間には、4男5女、合わせて9人の子供がいました。
夫婦を合わせると11人の大家族です。
| 続柄 | 名前 | 生年 |
|---|---|---|
| 長男 | 一太郎 | 1863年 |
| 次男 | 捨次郎 | 1865年 |
| 長女 | 里 | 1868年 |
| 次女 | 房 | 1870年 |
| 三女 | 俊 | 1873年 |
| 四女 | 滝 | 1876年 |
| 五女 | 光 | 1879年 |
| 三男 | 三八 | 1881年 |
| 四男 | 大四郎 | 1883年 |
慶應義塾の年譜でも、それぞれの誕生が確認できます。
当時は長男を特別視する考え方が強い時代でしたが、福沢は男女や年長・年少によって子供を分け隔てする考え方を嫌いました。
『福翁自伝』にも、娘であることを残念に思わないという趣旨の記述が残されています。
アメリカへ留学したのは長男と次男
福沢の息子たち全員が海外留学したわけではありません。
1883年にアメリカへ渡ったのは、
- 長男・一太郎
- 次男・捨次郎
の2人です。
2人は1888年に帰国しました。
ちょっと一息|息子への手紙は300通以上
一太郎と捨次郎がアメリカへ留学すると、福沢は約6年間、ほぼ毎週のように手紙を送りました。
その数は300通以上にのぼります。
「独立自尊」を説いた福沢ですから、子供を海外へ送り出したら放っておくのかと思いきや、実際にはかなりの“まめなお父さん”でした。
1867年の渡米時には、まだ幼かった2人の息子のために、当時の日本では非常に珍しかった乳母車を持ち帰ったとも伝えられています。
福沢諭吉の子孫は現在もいる?
福沢諭吉には9人の子供がいたため、その家系はその後も続いています。
公的な資料で確認しやすい子孫の一人が、テレビドラマの演出などで知られる福澤克雄さんです。
慶應義塾の『三田評論』では、福澤克雄さんを福沢諭吉の玄孫(やしゃご)と紹介しています。
ただし、「福沢」という名字だから子孫とは限りません。
子孫関係を紹介する場合は、本人や公的資料で系譜が確認できる人物に絞るのが安全です。
福沢桃介はどんな関係?
「電力王」として知られる福沢桃介は、福沢諭吉の実の孫ではありません。
もともとは岩崎桃介といい、諭吉の次女・房と結婚する際に福沢家の養子となりました。
ただし、福沢家の本家を継ぐための養子ではなく、房との結婚後は別家を立てることが決められていました。
つまり福沢桃介は、諭吉との関係でいえば、
「養子であり、次女・房の夫」
ということになります。
福沢家の人物関係をたどるときには、血縁上の孫とは区別しておくと分かりやすいでしょう。

福沢諭吉は1860年、咸臨丸でアメリカへ渡りました。
この遣米使節には、幕臣の小栗忠順も参加しています。福沢とは乗った船も立場も異なりましたが、二人はともに海外を実際に見て、その後、日本の近代化にそれぞれ違った立場から関わっていきました。
『男女交際論』は恋愛の本ではない
福沢諭吉には、1886年に発表した『男女交際論』という著作があります。
題名だけ見ると、現代の恋愛指南書のようにも聞こえますよね。
もちろん、そういう本ではありません。
当時の日本では、男性同士には社会的な交流がある一方、女性が広く社会で人と交流する機会は少なく、男女が自然に交流することも制限されていました。
福沢はそれを批判し、文明社会では男女が対等な立場で交流し、互いに学び合うべきだと考えました。
女性の教育や経済的自立も重視した
福沢の女性論で興味深いのは、単に「女性を大切にしましょう」という話ではないところです。
女性も教育を受け、自分で考え、経済的な力を持つ必要があると考えていました。
福澤研究センターの解説では、女性が職業を持ち、自分自身の生活を支えられるようになることの重要性を福沢が論じていたことも紹介されています。
明治時代であることを考えると、かなり先を行った発想です。
ただし家庭では理想どおりではなかった
ここで福沢を「完璧な男女平等主義者」として終わらせると、かえって人物像が薄くなります。
実際の娘たちは、息子たちと同じように海外留学したわけではありません。
学校教育も長くは続かず、家庭で英語や編み物、料理、琴、三味線などを学んでいました。
さらに四男・大四郎は後年、父は女性の権利を論じていたものの、家ではかなり自由に振る舞っていたという趣旨の話を伝えています。
思想として掲げた理想と、実際の家庭生活には少し距離があった。
そこまで含めて見ると、福沢諭吉が急に「教科書の偉人」から、生身の明治人になってくる気がします。
ちょっと一息|『男女交際論』には偽版本まで登場した
『男女交際論』は1886年に刊行されました。
ところが、このタイトルが当時の人々の興味を引いたためか、同じ年に大阪で偽版本まで作られています。
さらに後には、『男女交際論』の名前を利用して通俗小説を収録した本まで登場しました。
明治時代の人たちも「男女交際」という言葉には、ちょっとドキッとしたのかもしれません。
現在のネット記事のタイトルと、あまり変わらないところが面白いですね。
よくある質問
福沢諭吉に愛人や妾はいたのですか?
今回確認した慶應義塾の公式年譜や家族資料では、福沢自身に特定の愛人や妾がいたと確認できる記述は見つかりませんでした。
ただし、記録がないことだけを理由に「絶対にいなかった」とまでは断定できません。また、福沢の女性論や当時の妾制度に対する姿勢については、研究者の間でもさまざまな評価があります。
福沢諭吉の妻は誰ですか?
妻は錦(きん)です。
中津藩士・土岐太郎八の次女で、1861年冬に福沢と結婚しました。2人の間に血縁関係はありません。
福沢諭吉には子供が何人いましたか?
4男5女、合計9人です。
福沢は男児と女児を分け隔てせず大切にする考えを持っていました。
福沢桃介は福沢諭吉の孫ですか?
いいえ。
福沢桃介は、諭吉の次女・房と結婚する際に諭吉の養子となった人物です。血縁上の孫ではありません。
まとめ
福沢諭吉の女性関係を調べてみると、単純な「女好きだったのか」という話では終わりません。
今回確認した公式資料では、特定の愛人や妾がいたことは確認できませんでした。
妻は錦で、2人の間には4男5女、9人の子供がいました。
福沢は男女の平等や一夫一婦、女性の教育や経済的自立について論じています。
その一方で、家庭生活のすべてが現代的な男女平等だったわけでもありません。
理想を語りながら、明治という時代の中で暮らしていた一人の夫であり父親でもあった。
そう考えると、福沢諭吉という人物が少し違って見えてきます。
『学問のすゝめ』だけでは見えてこない福沢の一面を知るには、家族や女性との関係をたどってみるのも面白いですね。
参考文献・出典
- 慶應義塾「創立者 福澤諭吉」
- 慶應義塾『三田評論』「福澤 錦」
- 慶應義塾「長幼も男女も隔てなく愛した ~福澤諭吉と9人の子供たち~」
- 慶應義塾大学メディアセンター「男女交際論」
- 慶應義塾『三田評論』「認めあう社会――福澤諭吉の女性論・家族論に学ぶ」
- 慶應義塾『三田評論』「福澤桃介(上)」
- 国立国会図書館「福沢諭吉|近代日本人の肖像」
