すみだ北斎美術館、Sailko作、CC BY 3.0、ファイル名:東京、すみだ北斎美術館、北斎のスタジオ再現
葛飾北斎は、日本が世界に誇る偉大な浮世絵師であり、その生涯は数多くのエピソードに彩られています。
彼の芸術への情熱、絶え間ない学びと進化の精神、そして多くの名前を変えることで知られる彼の人生は、多くの人々にとって刺激となり、同時に多大な影響を与えてきました。
「葛飾北斎エピソード」というキーワードを検索してここにたどり着いたあなたは、おそらく彼の興味深い物語や芸術に関する深い洞察を求めていることでしょう。
この記事では、北斎の多彩なペンネーム、彼の残した名言など、北斎の人生を彩るいくつかのエピソードを紹介します。
北斎の世界に深く潜り込み、彼の芸術とその背後にある思想と哲学を一緒に探求しましょう。
葛飾北斎は江戸時代後期の日本を代表する浮世絵師、画家です。
1760年(宝暦10年)10月31日~1849年(嘉永2年)4月18日90歳没
葛飾北斎は、その生涯で約3万4000点もの作品を残しました。
これは、彼が一日に約1作品以上描き続けたことを意味します。
彼の作品は、版画、肉筆浮世絵、黄表紙、読本、狂歌本、絵手本、春画など、多岐にわたります。
また、彼は人間のあらゆる動きや筋肉の躍動、歴史上の人物、虫や鳥、草花、建物、仏教道具等、森羅万象あらゆるもののデッサンを描きました。
葛飾北斎の本名は川村鉄蔵とされ 江戸本所割下水(現在の東京都墨田区)生まれ。幼名は時次郎とされています。
※これらの情報は確定的なものではなく、多くの説が存在します
西暦年 | 和暦年 | 年齢 | エピソード |
---|---|---|---|
1760 | 宝暦10年 | 0歳 | 江戸本所割下水(現在の東京都墨田区)で生まれる |
1763 | 宝暦13年 | 4歳 | 幕府御用達鏡磨師であった中島伊勢の養子となる可能性がある |
1765 | 明和2年 | 6歳 | この頃から絵を描くことを好むようになる。後の作品『富嶽百景』『画本彩色通』などにその影響が見られる |
1773 | 安永2年 | 14歳 | 彫師の修行を開始する。『葛飾北斎伝』によると、この年または翌年からである |
1778 | 安永7年 | 19歳 | 浮世絵師・勝川春章の門下に入り、春朗の画号を授けられる |
1790 | 寛政2年 | 31歳 | 葛飾に移住する |
1793 | 寛政5年 | 34歳 | 勝川派から破門される |
1794 | 寛政6年 | 35歳 | 2代目俵屋宗理を襲名する |
1804 | 文化元年 | 45歳 | 大達磨半身像を描く |
1814 | 文化11年 | 55歳 | 「北斎漫画」初編を発刊する |
1820 | 文政3年 | 61歳 | 「為一」の落款使用開始する |
1822 | 文政5年 | 63歳 | 「画狂老人卍」の号を使用する |
1834 | 天保5年 | 75歳 | 相州浦賀に移住する |
1849 | 嘉永2年 | 90歳 | 生前最後の作品「富士越龍図」を完成させ、床に臥せるようになり、3か月後に永眠 |
北斎の父親については諸説ありますが、飯島虚心が北斎の曾孫白井氏へ確認した際のやり取りが『葛飾北斎伝』に記されています。
これに拠れば川村家の子として生まれ、中島家へ養子となったとされています。
これが通説となり、幕府御用の鏡師である中島伊勢の子あるいは養子とされていますが、明確とされる根拠は無い。
母親については吉良上野介の家臣であった小林平八郎の孫娘と言われており、北斎本人もそのように語っていたと『葛飾北斎伝』に記されています。
北斎には二度の結婚歴があり、それぞれの妻との間に一男二女をもうけたと言われています。
先妻についての詳細は不明ですが、後妻の名はこととされています。
どちらの妻とも死別とされ、文政11年(1828年)に最後の妻であることと死別して以降は三女のお栄と最期まで暮らしました。
北斎には一男二女がいました。
また、次男は幼名を多吉郎といい、御家人である加瀬氏に養子へ出された後、崎十郎と改められました。三女はお栄といい、葛飾応為として浮世絵師となりました。四女についてはお猶(阿猶)と言われるが、早世が伝えられるのみで詳細は分かっていません。
葛飾北斎はその生涯で30回以上も名前を変えていました。
これらは彼が生涯で使用した名前の一部であり、他にも「戴斗」、「錦袋舎」、「為一」、「卍」など、多くの名前を使用していました。
彼の名前の変遷は、その時々の彼の芸術的志向や生活状況を反映しています。
また、彼は名前を有名にしては売ってお金にしていたとも言われています。これらの事実は、
北斎がただの絵師ではなく、独自の芸術家であったことを示しています
『葛飾北斎伝』によれば、北斎は生涯に93回もの転居を行ったとされています。
しかし、この具体的な数字については、『葛飾北斎伝』には明確な根拠が示されておらず、信憑性に疑問が投げかけられています。
また、一日に3回も転居したという逸話も、北斎の奇人ぶりを強調するエピソードとして、検証なしに紹介される傾向にあります。
それでも、北斎が頻繁に転居を行っていたこと自体は、当時から広く知られていました。
例えば、曲亭馬琴の『曲亭来簡集』などでも取り上げられています。
北斎の度重なる転居の理由については、彼自身と、離縁した後に父のもとに戻った娘のお栄(葛飾応為)が、絵を描くことだけに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたという話があります。
また、寺町百庵に倣って、百回の転居の後に死にたいという北斎の願望も『葛飾北斎伝』に記されています。
北斎は衣食住に頓着しない性格で、部屋の掃除や片付けをせず、住居は常に荒れ果てていたと言われています。
彼の家を訪れた歌舞伎役者の尾上梅幸は、足の踏み場もないほどに荒れた室内に驚いたという。
北斎の三女、お栄も父と同じように部屋を荒らす性格で、作品制作に没頭するために布団を頭から被り、手元に尿瓶を置いていたとされています。
衣服については、基本的に荒い手織り木綿を着ており、寒い時にはその上から袖なしの半纏(はんてん)を羽織っていました。
衣服が破れていても気にせず、汚れた衣服で絵を描き続けていたという証言もあります。
外出時は6尺(約181cm)あまりの天秤棒を杖代わりにし、草履を突っかけて出かけていました。
食事については、北斎自身もお栄も料理をしなかったため、貰ってきたものや買ってきたものをそのまま食べるだけの生活でした。
煮売酒屋の隣に住んでいた期間は、3食ともこの店から出前を取っていたという逸話もあります。
酒は飲まず、茶の銘柄にもこだわらなかったが、甘いものには目がなかったと言われています。
金銭については、画代を確認せずに投げ出したり、売掛金の支払いを確認せずに渡したりしていたという。
このような杜撰さから、北斎は常に金に困る生活を送っていたとされています。
しかし、浮世絵研究家の林美一氏は、北斎がひっきりなしに仕事を受注していたことから、北斎が本当に極貧だったのは、無名だった天明年間および孫の対処に追われた天保以降のみで、常に貧乏だったとする言説は誤りではないかと指摘しています。
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