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勝海舟は何をした人?坂本龍馬との関係と江戸城無血開城

2026 8/11
歴史・文化
2026年8月11日
本ページには広告が含まれています。
和装姿の勝海舟

「勝海舟」という名前は知っていても、結局、何をした人なの?と聞かれると、意外と説明しにくい人物です。

江戸城無血開城。坂本龍馬の師匠。咸臨丸でアメリカへ行った人。

どれも正しいのですが、それだけでは勝海舟という人物の面白さが少し見えにくいかもしれません。

勝海舟は、西洋式の海軍づくりに取り組み、坂本龍馬ら若者を育て、最後には旧幕府側の代表として江戸での大規模な戦いを避けるために動いた幕臣です。 明治維新で幕府が消えたあとも生き続け、新政府でも要職を務めました。

しかも、勝海舟をめぐる話には、後世に分かりやすく語られるうちに単純化されたものもあります。

咸臨丸は日本人だけで太平洋を渡ったのか。江戸無血開城は勝と西郷隆盛の二人だけで実現したのか。そして「坂本龍馬は勝を斬りに行った」という有名な話は、どこまで確認できるのか。

そのあたりも含めて、勝海舟の生涯をたどってみましょう。


目次

勝海舟は何をした人?まず3つの功績

勝海舟がしたことを大きく分けると、次の3つが分かりやすいでしょう。国立国会図書館でも、海軍教育、咸臨丸での渡米、坂本龍馬らの育成、江戸城無血開城が主要な経歴として紹介されています。

①日本の海軍づくりに力を注いだ

勝海舟は蘭学や西洋兵学を学び、長崎海軍伝習所で西洋式の航海や海軍について学びました。

1860年には咸臨丸の艦長としてアメリカへ渡っています。

日本が本格的に西洋諸国と向き合い始めた時代に、実際に海を渡り、海外を見る経験をした幕臣でした。

②坂本龍馬ら若者を育てた

勝は神戸に海軍操練所を開き、幕臣だけではなく諸藩の若者も受け入れました。

その門下生の一人が坂本龍馬です。

国立国会図書館によると、龍馬は勝から世界情勢などを学び、家族への手紙で勝を「日本第一の人物」と紹介しています。

③江戸城無血開城に大きな役割を果たした

1868年、戊辰戦争が始まり、新政府軍が江戸へ迫りました。

旧幕府側の勝海舟は新政府軍の西郷隆盛らと交渉し、江戸城を大規模な戦闘なしで明け渡す方向へ進めます。

1868年4月11日、江戸城は無血開城されました。


勝海舟の基本プロフィール

項目内容
名前勝海舟(かつ かいしゅう)
本名勝安芳(かつ やすよし)
もとの名義邦(よしくに)
通称麟太郎(りんたろう)
「海舟」とは本名ではなく「号」と呼ばれる別名
生年月日1823年3月12日
死没1899年1月19日
享年満75歳(数え年77歳)

「海舟」は本名ではなく「号(ごう)」です。

号とは、今でいうペンネームや雅号のような別名のこと。

勝はもともと義邦といい、のちに安芳と改名しました。

通称は麟太郎で、一般には「勝海舟」の名で知られています。

国立国会図書館では、名を義邦、のち安芳、通称を麟太郎、海舟を号としています。


貧しい旗本の子から海軍の専門家へ

勝海舟は1823年、江戸本所、現在の東京都墨田区両国周辺で生まれました。

父は勝小吉。旗本の家ではありましたが役職がなく、国立国会図書館の人物紹介によると、家計は決して裕福ではありませんでした。

少年時代の勝は剣術に打ち込みます。

しかし、その後の人生を大きく変えたのは「剣」よりもむしろ外国について学んだことでした。

黒船来航で人生が動き始める

1853年、ペリーが来航します。

幕府は外国への対応を迫られました。

勝は海防についての意見書を幕府に提出します。そこでは軍艦だけではなく、身分にとらわれず有能な人物を登用することなども提案していました。

それまで目立った役職に就いていたわけではない一人の幕臣が、国の問題について意見を出した。

そこから勝の人生が大きく動き始めます。

長崎海軍伝習所で西洋式海軍を学ぶ

1855年、勝は長崎海軍伝習所へ送られます。

長崎海軍伝習所は、西洋式の航海術や海軍技術を学ぶためにつくられた場所でした。

勝はここで学び、のちの海軍育成へつながる知識を身につけていきます。

勝海舟寓居の地を示す石碑と案内板
勝海舟が長崎滞在中に暮らした場所を示す「勝海舟寓居の地」撮影:Ke Ki / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

ちょっと一息|拾った餅を川へ投げた若き日の海舟

勝海舟というと豪胆な人物を想像しますが、若い頃はかなり貧しい生活を送っていました。

国立国会図書館には、結婚後の正月、親戚からもらった餅を持ち帰る途中に風呂敷が破れ、両国橋で餅を落としてしまったという話が紹介されています。

暗い中で餅を拾いながら、自分がまだ自立できない境遇に情けなさを感じた勝は、拾った餅を川へ投げ込んでしまったといいます。

後に歴史を動かす人物にも、そんな時代があったのです。


咸臨丸でアメリカへ

勝海舟の名前と一緒によく登場するのが咸臨丸(かんりんまる)です。

1860年、咸臨丸はサンフランシスコへ向けて太平洋を横断しました。

勝はこの航海で艦長を務めています。

日本の軍艦として初めて太平洋を横断

咸臨丸は幕府がオランダに発注した軍艦で、日本の軍艦として初めて太平洋を横断しました。

乗船者には勝海舟のほか、軍艦奉行の木村喜毅、福沢諭吉らもいました。

アメリカを見ることは、当時の日本人にとって非常に珍しい経験でした。

海の向こうにどのような国があり、どのような技術や社会があるのか。

勝はそれを本や噂ではなく、実際に目にしたことになります。

実はアメリカ人も11人乗っていた

ここには一つ、知っておきたいことがあります。

咸臨丸の航海は、ときどき「日本人だけで初めて太平洋横断を成し遂げた」という印象で語られます。

しかし、実際には日本人98人のほか、アメリカ人士官ジョン・ブルックら11人のアメリカ人も乗船していました。

ジャパンサーチは、日本人98人、アメリカ人11人が乗船し、37日をかけて日本軍艦として初めて太平洋を横断したと説明しています。

つまり、この航海が大きな一歩だったことに変わりはありませんが、当時の日本はまだ西洋の航海技術を学んでいる途中でした。

この事実を知ったほうが、むしろ「そこから日本が海軍技術を身につけていった」という時代の変化が見えてきます。


同じ咸臨丸でアメリカへ渡った福沢諭吉の人物像も見てみる


勝海舟と坂本龍馬はどんな関係だった?

勝海舟と坂本龍馬は、師と門下生という関係でした。

坂本龍馬は土佐藩を脱藩したあと勝の門下に入り、神戸海軍操練所の建設にも関わっています。国立国会図書館の坂本龍馬の人物紹介でも、龍馬が勝海舟の門下生となったことが確認できます。

龍馬は勝海舟を高く評価していた

龍馬は勝から世界情勢などを学びました。

国立国会図書館では、龍馬が家族への手紙の中で勝を「日本第一の人物」と紹介したことも掲載されています。

幕府を倒そうとする側へ近づいていく龍馬と、幕臣である勝。

普通なら敵味方に分かれてもおかしくありません。

それでも龍馬が勝のもとで学んだところに、幕末という時代の面白さがあります。

勝自身も、幕府の人間だけを育てようとしていたわけではありませんでした。

「勝海舟を斬りに行った」は本当?

ここは有名な話です。

坂本龍馬は勝海舟を暗殺するために会いに行った。
ところが勝の話を聞いて感服し、その場で弟子になった。

ドラマのようなエピソードなので、非常に印象に残ります。

ただし、今回確認した国立国会図書館などの公的資料では、「龍馬が勝を暗殺しに行った」という経緯までは確認できませんでした。

確認できるのは、龍馬が勝の門下生となり、神戸海軍操練所の建設に関わったことです。

そのためこの記事では、「斬りに行ったら弟子になった」を確定した史実としては扱いません。

有名な逸話ほど、一度立ち止まって確認してみる。

歴史を読む面白さは、こういうところにもあります。


なぜ勝海舟は江戸城無血開城を選んだ?

1867年に撮影された勝海舟や稲葉正巳ら幕府関係者の集合写真
1867年9月22日に撮影された幕府関係者ら。中央は稲葉正巳。右から大関増裕、松平太郎、勝海舟が並ぶ。

勝海舟の最大の功績として知られているのが、江戸城無血開城です。

1868年、鳥羽・伏見の戦いをきっかけに戊辰戦争が始まりました。

徳川幕府はすでに終わっていましたが、旧幕府勢力と新政府軍の対立は続いていました。

そして新政府軍は、巨大都市・江戸へ迫ります。

江戸で戦えば大きな被害が出る

勝は旧幕府側で交渉にあたりました。

一方、新政府軍側で中心となった人物の一人が西郷隆盛です。

勝と西郷の交渉を経て、江戸城を大規模な戦闘なしで明け渡す方向へ進みます。国立国会図書館も、勝が西郷隆盛との交渉によって江戸城無血開城を実現した人物として紹介しています。

ただし、ここにも少し注意が必要です。

勝と西郷の会談だけではなかった

「勝海舟と西郷隆盛が会談し、二人で江戸を救った」

そう覚えている人も多いでしょう。

もちろん二人の交渉は重要です。

しかし、江戸無血開城は二人だけで突然決まったわけではありません。

その前に動いていた人物の一人が、山岡鉄舟です。

山岡鉄舟が先に西郷と交渉していた

山岡鉄舟は勝海舟の使者として新政府軍のもとへ向かい、駿府で西郷隆盛と会談しました。

東京都江戸東京博物館に関するレファレンス資料では、鉄舟が徳川家の処遇や戦闘回避の条件について西郷と協議し、江戸無血開城の実現に深く関わったと説明されています。

そのうえで勝と西郷の会談が行われました。

歴史は、後から見ると「二人の英雄の話」にまとめたくなります。

でも実際には、多くの人の交渉や判断が積み重なっていました。

勝海舟の功績を小さくするためではなく、その過程を知るほうが、無血開城がどれほど難しい仕事だったのかがよく分かります。

1868年4月11日、江戸城は明け渡された

交渉の結果、江戸城への総攻撃は回避されました。

国立公文書館によると、1868年4月11日に江戸城は「無血開城」されています。

ただし、「無血開城」という言葉から、これですべての戦いが終わったと思うと少し違います。

同じ国立公文書館の資料には、翌5月15日に上野で彰義隊と新政府軍の戦いが起きたことも記されています。

江戸城そのものを戦場にしなかったことと、江戸周辺で一切戦闘がなかったことは同じではありません。

ここも覚えておきたいところです。


同じ幕末の幕臣・小栗忠順は、どんな道を選ぼうとしたのか


明治になった勝海舟はどうなった?

年齢を重ねた勝海舟の肖像
勝海舟(1823~1899)

幕府がなくなれば、幕臣だった勝海舟の役割も終わりそうです。

ところが、勝は明治時代まで生き、新政府でも働きました。

国立国会図書館によると、海軍大輔、参議兼海軍卿、元老院議官などを歴任し、のちには枢密顧問官も務めています。

幕府を代表して新政府と交渉した人物が、その新政府でも要職に就いた。

これも勝海舟という人物の興味深いところです。

西郷隆盛との関係は維新後も続いた

西郷隆盛とは、単に江戸開城の交渉相手だっただけではありません。

国立国会図書館の人物紹介では、西南戦争で西郷が亡くなったあと、勝が西郷の名誉回復に努めたことも紹介されています。

幕府側、新政府側。

立場だけ見れば敵同士だった二人ですが、それだけでは説明できない関係がありました。


勝海舟の妻と子ども

妻・民と洗足池の墓

勝海舟の妻は民(たみ)です。

現在、東京都大田区の洗足池近くには勝海舟夫妻の墓があります。

大田区によると、海舟は生前からこの地を気に入り、死後ここへ葬られることを望んだとされています。妻・民の墓も後に移されています。

勝海舟というと江戸城や咸臨丸のような大きな歴史が目立ちますが、最後は自分の気に入った洗足池のほとりに眠っています。

少し人物が身近に感じられる話です。

勝海舟に子どもはいた?

勝海舟には子どもがいました。

なかでもよく知られているのが、長男の勝小鹿(かつ・ころく)です。

小鹿は1852年生まれ。幼い頃から弟とともに学問に励み、幕府が終わる直前の1867年、15歳ほどでアメリカへ留学しました。約10年間の留学を終えて1877年に帰国すると、海軍に入りました。

父・海舟から将来を期待されていた小鹿ですが、病気のため海軍を休職。その後、1892年に41歳で父より先に亡くなっています。

海舟には次男の四郎もいました。大田区立勝海舟記念館では四郎の肖像画も所蔵され、2023年の特別展で初公開されました。小鹿について記念館は、幼少期に「弟と共に勉学に励み、弟の死後は父の期待を一身に受けた」と説明しています。

また、海舟の子には梶梅太郎もいます。海舟が亡くなったあと、梅太郎は洗足池近くの別荘「洗足軒」に住み、父の墓を守っていました。

ちょっと一息|父より先に亡くなった「後継者」小鹿

歴史上では父・勝海舟の存在があまりにも大きいため、長男・小鹿についてはこれまで詳しく知られてきませんでした。

ところが近年、大田区立勝海舟記念館の収蔵資料から、小鹿に関する一次資料が複数見つかっています。

記念館では2026年8月21日から「KOROKU―海舟の息子・勝小鹿の生涯―」という企画展も開催予定です。幕末の英雄の「息子」がどんな人生を歩んだのか、今まさに新しい研究が進んでいる人物なのです。

勝海舟の死因は?最期の言葉は「コレデオシマイ」?

勝海舟は1899年(明治32年)1月19日、満75歳で亡くなりました。当時の数え年では77歳です。

大田区の公式資料では死因を「病死」としていますが、後世の資料では脳溢血(脳出血)だったとする記録が広く見られます。

そして海舟の最期には、こんなエピソードが残されています。

勝の身近にいた女性・糸子の回想を収めた『海舟座談』によると、その日、海舟は風呂から上がったあとに倒れ、「死ぬかも知れない」と口にして生姜湯を求めました。

しかし用意が間に合わず、代わりにブランデーが運ばれたといいます。

また、勝海舟の最期の言葉として有名なのが、

「コレデオシマイ」

という一言です。

文字どおり「これでおしまい」。

いかにも歯切れのよい海舟らしい言葉ですが、国立国会図書館や大田区の公式プロフィールには、この最期の言葉についての記載はありません。

そのため、本人が確実に口にしたと断定するより、「最期の言葉として伝えられている」としておくのが適切でしょう。

幕末から明治という激動の時代を生き抜いた人物の最後の言葉としては、なんとも印象に残る一言です。


勝海舟本人の言葉を読むなら『氷川清話』

ここまで読んで、

「勝海舟本人は、幕末の人たちをどう見ていたんだろう?」

と思った方には、『氷川清話』があります。

勝海舟が晩年に語った談話をまとめた本で、西郷隆盛など同時代の人物評、政治への考え、若い頃の体験などが収められています。

現在の講談社学術文庫版は、江藤淳・松浦玲編による完全校訂版で、従来の流布本を検討し直して再編集したものです。

ただし、勝本人の談話だからといって、すべてをそのまま客観的な歴史資料として受け取れるわけではありません。

晩年の本人が過去を振り返って語ったものとして読むと、年表だけでは見えてこない勝海舟の人間臭さが感じられる一冊です。

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よくある質問

勝海舟は簡単にいうと何をした人?

日本の海軍育成に取り組み、坂本龍馬らを育て、江戸城無血開城に大きな役割を果たした幕臣です。

1860年には咸臨丸で渡米し、明治維新後も新政府の要職を務めました。

勝海舟と坂本龍馬はどんな関係?

勝海舟が師、坂本龍馬が門下生という関係です。

龍馬は勝から世界情勢などを学び、神戸海軍操練所の建設にも関わりました。

江戸城無血開城は勝海舟一人の功績?

いいえ。勝海舟は中心人物の一人ですが、一人で実現したわけではありません。

西郷隆盛との交渉に加え、その前には山岡鉄舟が西郷と交渉するなど、多くの人が関わりました。

咸臨丸は日本人だけで太平洋を渡った?

いいえ。アメリカ人も乗船していました。

ジャパンサーチによると、日本人98人に加えてジョン・ブルックらアメリカ人11人が乗船しています。

勝海舟は何歳で亡くなった?

大田区の公式資料では、1899年1月19日に77歳で病死したとされています。


まとめ|勝海舟は「戦う以外の道」を選んだ幕臣

勝海舟は、ただ「江戸城を無血開城させた人」ではありません。

蘭学と西洋兵学を学び、長崎海軍伝習所へ行き、咸臨丸で太平洋を渡る。そして坂本龍馬をはじめとする若者を育て、幕府が崩れていく最後の局面では、新政府との交渉に立ちました。

もちろん、江戸無血開城も勝一人で成し遂げたものではありません。

西郷隆盛、山岡鉄舟など、多くの人物の動きがありました。

それでも勝海舟が面白いのは、最後まで「幕府か新政府か」という枠だけでは動いていなかったように見えるところです。

剣を学んだ武士でありながら、歴史に最も大きく名前を残した場面では、戦うことではなく交渉することを選びました。

幕末には、同じ幕臣でもまったく違う道を歩んだ人物がいます。

小栗忠順の記事とあわせて読むと、「幕府がなくなると分かったとき、人は何を残そうとしたのか」という、幕末のもう一つの物語が見えてきます。


参考文献・出典

  • 国立国会図書館「勝海舟|近代日本人の肖像」 — 生没年、咸臨丸、海軍操練所、坂本龍馬、江戸城無血開城、明治政府での経歴。
  • 国立国会図書館国際子ども図書館「勝海舟」 — 貧しい暮らし、餅の逸話、海防意見書、龍馬との関係。
  • ジャパンサーチ「咸臨丸」 — 船の概要、日本人98人・アメリカ人11人、太平洋横断。
  • 国立公文書館「変貌」 — 1868年4月11日の江戸城無血開城、その後の彰義隊の戦い。
  • レファレンス協同データベース/江戸東京博物館「山岡鉄舟と江戸無血開城」 — 山岡鉄舟と西郷隆盛の事前交渉。
  • 大田区「勝海舟と大田区」 — 生没年、享年、病死、無血開城。
  • 大田区「勝海舟夫妻の墓」 — 洗足池と墓所。
  • 講談社『氷川清話』 — 書誌情報と完全校訂版の内容。

画像クレジット

本記事では、Wikimedia Commonsで公開されている画像を使用しています。

  • 勝海舟肖像:東洋文化協會刊『幕末・明治・大正 回顧八十年史』/Public Domain
  • 勝海舟肖像:改造社刊『勝海舟』/Public Domain
  • 勝海舟寓居の地:Ke Ki/CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons
  • 幕府関係者と米国公使らの集合写真:Charles Leander Weed/Public Domain
  • 勝海舟肖像:撮影者不詳、東洋文化協會刊『幕末・明治・大正 回顧八十年史』/Public Domain
  • 勝海舟肖像:東洋文化協會刊『幕末・明治・大正 回顧八十年史』/Public Domain

今回の記事はこれで終了です。読んでくださってありがとうございます。

歴史・文化
勝海舟 坂本龍馬 幕末 明治維新

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