歌川広重「大井川を渡る」、1850年制作、パブリックドメイン
19世紀の日本とヨーロッパを代表する二人の画家、歌川広重とヴィンセント・ヴァン・ゴッホが、時間と空間を超えてどのように芸術的に繋がっているのか?
広重は江戸時代後期の日本で革新的な風景版画を生み出しましたが、彼とポスト印象派の巨匠ゴッホとの間には直接的な接触はありませんでした。
それにもかかわらず、ゴッホの作品に見られる明るい色彩使いや独特の構図は、広重の作品から大きな影響を受けたことが知られています。
この記事では、広重の版画がどのようにゴッホのアートワークに影響を与え、その結果、世界の美術史にどのような足跡を残したのかを詳しく掘り下げていきます。
歌川広重(うたがわ ひろしげ)は、1797年に江戸(現在の東京)で生まれ、1858年に亡くなりました。
本名は安藤重右衛門で、幼名は徳太郎といいました。
歌川広重の父は、江戸時代の消防組織である「定火消」に所属していた安藤家の一員でした。
広重は幼い頃から絵の才能を示し、歌川広重は15歳のときに絵を学ぶために初代歌川豊国の門下生となることを希望しましたが、豊国の教室がすでに満員だったため、代わりに歌川豊広のもとで学ぶことになりました。
その後、彼は歌川広重と名乗り、風景画を中心に活動を展開しました。
彼の作品は日本国内だけでなく、海外でも大きな影響を与えました。
西暦 | 日本の時代 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|---|
1797 | 寛政9年 | 生誕 | 歌川広重が江戸城馬場先門近くの八代洲河岸で生まれる(現在の東京の八重洲)で生まれる |
1809 | 文化6年 | 13 | 母、続いて父が亡くなり、家督を継ぐ |
1811 | 文化8年 | 15 | 歌川豊広に弟子入りする |
1812 | 文化9年 | 16 | 師匠と自分の名前から一文字ずつ取った「歌川広重」の名で浮世絵師としてデビュー |
1818 | 文政元年 | 22 | 初めて役者絵を出版 |
1821 | 文政4年 | 25 | 同じ火消同心の岡部弥左衛門の娘と結婚 |
1823 | 文政6年 | 27 | 美人画で人気を博す |
1831 | 天保2年 | 35 | 東海道五十三次之内「箱根」を出版 |
1832 | 天保3年 | 36 | 養祖父(安藤家)方の嫡子仲次郎に家督を譲り、自身は鉄蔵と改名しその後見となった |
1833 | 天保4年 | 37 | 「東海道五十三次」(保永堂版)の刊行開始 |
1834 | 天保5年 | 38 | 「名所江戸百景」の刊行開始 |
1835 | 天保6年 | 39 | 「東海道五十三次」(保永堂版)の刊行完了 |
1839 | 天保10年 | 43 | 歌川国芳と共に「絵本太閤記」を刊行 |
1842 | 天保13年 | 46 | 「五畿内名所図会」を刊行 |
1848 | 嘉永元年 | 52 | 「立斎草筆画譜」を刊行 |
1856 | 安政3年 | 60 | 「名所江戸百景」の刊行完了 |
1858 | 安政5年 | 62 | 江戸でコレラにより死去 |
歌川広重(本名:安藤重右衛門)の父は安藤源右衛門、母はきくといいます。
広重は文政4年(1821年)に、同じ火消し同心であった岡部弥左衛門の娘と結婚しました。
しかし、広重の結婚生活に関する具体的な詳細はあまり知られていません。
広重の作品やその芸術的影響がより強調されて記録されています。
彼の私生活や家族構成に関する詳細は謎に包まれています。
広重自身に直接的な子供についての記録は特に見つかりません。
ただし、広重の名前は彼の門弟たちによって受け継がれました。
例えば、二代目歌川広重は広重の門人が継いだものであり、彼らは広重の芸術的遺産を引き継いで新たな作品を生み出し続けました。
しかし、これらは血縁関係に基づく継承ではなく、師匠から弟子への技術と名跡の継承であり、直接的な子孫というわけではありません。
歌川広重の名は、初代広重から始まり、その後も複数の画家によって継承されました。
以下は、初代から五代目までの歌川広重の継承についての概要です。
歌川広重の作品は非常に多く、その総数は約2万点にも及ぶと言われています。
これには、彼が生涯にわたって制作した浮世絵、肉筆画、団扇絵、双六、絵封筒などの絵本や合巻、狂歌本などの挿絵などが含まれています。
また、彼の代表作である「名所江戸百景」だけでも119作品が確認されています。
しかし、これらの作品はすべてが現存しているわけではなく、一部は失われてしまった可能性もあります。
以下は特に有名で、影響力の大きい作品です。
ヒロマーク:絵の中に隠された遊び心
※最新の情報を得るには各美術館の公式ウェブサイトをご覧いただくか、直接美術館にお問い合わせいただくことをお勧めします
歌川広重 『大はしあたけの夕立』(おおはしあたけのゆうだち)
製作年 1857年9月
カタログ 名所江戸百景(第52景)
寸法 37 x 25 cm
フィンセント・ファン・ゴッホによる模写
オランダ出身のポスト印象派の画家で、彼の独特な画風、鮮やかな色彩、情感豊かな筆使いで知られています。
フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ、通称ゴッホは印象派を代表するオランダ人画家で、日本ととてもゆかりの深い画家でした。
彼は特にジャポニスムの影響を強く受けた芸術家の1人で、いくつかの作品の中で浮世絵を模倣したり、背景全体に浮世絵を配置した肖像画なども残しています。
19世紀に開催された万国博覧会では、それまで西洋の画家たちが見たこともなかったような東アジアの芸術作品が展示されました。
なかでも目を芸術家たちの目を引いたのが、浮世絵などを中心とした日本美術でした。
ゴッホやクロード・モネなどの印象派の画家たちは、色彩感覚や水の表現など、力強い日本芸術を作品の中に取り入れ、このムーブメントはのちに「ジャポニスム」と名付けられました。
特に彼の作品の青色は「ヒロシゲブルー」と呼ばれ、その鮮やかさが評価されています。
ゴッホが強く影響を受けた作品の1つに、歌川広重の『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』が挙げられます。
西洋では水を平面画において実線として表現する伝統はなく、広重が実線で雨を作中に描き足している点に西洋の画家たちは驚いたと言われます。
ゴッホは、この作品を自分の手で模写するほど気に入り、その他にも広重の作品をいくつか模写しました。
これらの浮世絵のパワフルで直接的な表現が、ゴッホの目には新鮮に映ったのかもしれません。
ゴッホは弟のテオに宛てた手紙の中で、日本の美術、特に浮世絵に対する深い興味と敬意を度々表現しています。
彼は浮世絵を「驚くべきもの」と賞賛し、その色彩や構図から多くを学び取ろうとしていました。
私たちが見慣れた浮世絵がゴッホの作品の背景に描かれているのは、なんとも不思議な光景です。
19世紀の印象派の作品を鑑賞する際には、そんなジャポニスムの背景に思いを馳せるのも楽しいかもしれません
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